HISTORICAL PERSON · 842年没

ラン・ダルマ

吐蕃の王で、護教王として名高い兄の後を継いだ。後世の仏教年代記は廃仏の暴君と記すが疑問視され、中観に関する著作も確認できる。842年頃に宰相に暗殺され、吐蕃は二つの政権に分裂した。

生涯
842年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ラン・ダルマは、古代チベットの王国である吐蕃の王で、803年または809年に生まれ、842年または843年に没したとされる。護教王として名高いチツク・デツェンの弟にあたり、兄の死後に王位についた。本名はダルマ・ウ・ドゥム・ツェンという。在位の始まりは明らかでなく、841年から842年ごろまでとされることが多い。吐蕃最後の王として知られ、その死は帝国の解体につながった。

名の「ラン」は「牡牛」を意味する。体格とぼんやりした性格に由来すると考えられているが、後世には仏教年代記の影響で「廃仏を行った牡牛のような暴君」という意味が加わった。チベット仏教の伝承では、地獄の番人である牛頭の化身とされたことから、この呼び名がついたとも語られる。黒い舌を持っていたとも伝えられ、チベットの人々が挨拶に軽く舌を出す仕草は、自分が悪王の化身でない、悪事を行っていないという印だと説明されることがある。

兄の死をめぐっては、838年にラン・ダルマが兄のラルパチェンを殺害したとする伝えもある。若いころは仏教徒だったが、ウェー・ゲルトレの影響でボン教の熱心な信者になったとも伝わる。後代の仏教年代記は、僧や尼を迫害し寺院を破壊した王として描いている。しかし、こうした記述は疑問視されている。中国で編纂された史書は、飲酒と狩猟を好む残忍な君主と記すが、中国の史書は滅んだ国の君主を概ね悪く書く傾向があるため、佐藤長は信憑性に疑問を呈している。一方、13世紀末にプトゥンが作った仏教書の目録には、ラン・ダルマが中観について述べた著作を残したことが確認でき、敦煌の文献には王の長寿を願う祈祷文が収められている。廃仏についても、本来は仏教に理解のあった王が、周囲に押されてやむなく行ったとする意見がある。山口瑞鳳らの研究により、従来の反仏教の王という見方には再解釈が示されている。この時代の外の情勢では、北のウイグル可汗国が840年にエニセイ・キルギスの反乱で崩れ、難民がチベットに流れ込んだ。在位期間については、1年から1年半とする説のほか、6年または13年とする説もあり、一定しない。

最期については、842年ごろに宰相によって暗殺されたとする説明がある。理由は不明だが、当時の吐蕃では、軍事中心・仏教偏重の政策からの転換が必要とされており、こうした中で起きた権力闘争に巻き込まれたと考えられている。ラルン・ペルギ・ドルジェという仏僧が842年(または846年)に王を殺したとする伝えが広く知られ、別の説では、ニンマ派の師ヌプチェン・サンゲ・イェシェが王を脅して死に至らしめたともいわれる。

王の死後、吐蕃はバー氏と外戚のブロ氏を中心とする2つの政権に分裂し、内戦をへて帝国は解体し、分裂時代に入った。王には少なくとも2人の子があり、最初の妃の子ティデ・ユムテンは中央のウー地方を、次の妃の子ナムデ・ウースンは東方とみられる左翼を治めて争った。孫のキデ・ニマゴンは、10世紀末ごろにわずか300人の軍でンガリを征服し、都市や城を築き、シェーの主要な彫刻を造らせた。碑文には、一族と西チベットの人々の宗教的利益のために造ったとあり、この世代にはすでに、ラン・ダルマの仏教への反対が消えていたことを示すとされる。シェーは現在のレーの東約15キロにあり、ラダックの王たちの古い本拠であった。また、仏教弾圧のあと、アティーシャがスマトラから招かれてチベットに仏教を復興したとも語られる。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物

該当人物はまだありません。