伝記
テオフィロスは、東ローマ帝国のアモリア王朝の第2代皇帝である。812年の末か813年の初めに、初代皇帝ミカエル2世と妃テクラの子として生まれ、レオーン5世の代子でもあった。名はギリシア語で「神に愛された者」を意味する。821年に父の共同皇帝となり、829年10月2日に単独の皇帝となって、842年1月20日に没するまで在位した。聖像破壊を支持した最後の皇帝でもある。
皇帝の一族の中で十分な教育を受け、文法家ヨハネスに学んで、音楽や美術を深く愛した。即位の直後には、父に味方してレオーン5世を暗殺した人々を捕らえ、コンスタンティノポリスの馬車競技場で処刑した。自らを正義の守り手と考えていたためで、毎週、市中に出て市民の意見を直接聞いたとも史書に伝えられる。継母エウフロシュネがしばらく摂政を務めたが、830年ごろに花嫁を選ぶ催しを開き、軍人マヌエルの姪テオドラを妃に定めて修道院へ退いた。学問や建築にも関心が深く、数学者レオーンを抜擢してマグナウラ宮殿で高等教育を行わせ、小アジアにイスラーム風の意匠を採り入れたブリュアス離宮を建てさせた。こうした事業は、のちのマケドニア朝ルネサンスを準備したといわれる。この時代以降は地中海交易が再び活気づき、七世紀以来初めて銅貨が大量に発行された。
即位したとき、帝国は東でアッバース朝、西のシチリア島でアグラブ朝という二つの敵に迫られていた。シチリアでは831年にパレルモが1年ほどの包囲の末に陥落し、以後、島は徐々に征服されていった。東方では、831年にカルシアノンで襲来した大軍を破り、キリキアを荒らして最初の凱旋式を挙げたが、832年にはカリフ、マームーンの報復を受け、ルロンの要塞を奪われた。834年、ハッラム派の亡命者を率いるナスルを迎え入れ、洗礼を受けたナスルはテオフォボスと名乗り、皇帝の叔母と結婚して将軍の一人になった。837年には7万の大軍でメソポタミア方面へ進んでメリテネなどを落とした。ところが838年、復讐に燃えるカリフ、ムウタスィムの遠征を受け、ダジモンの戦いで敗れ、故郷アモリオンや、アンキュラ(現在のアンカラ)が破壊される屈辱を味わった。また、共通の敵である第一次ブルガリア帝国に対抗するため、セルビア公国に対する名目上の宗主権を確保している。この間、コンスタンティノポリスでは皇帝の消息が一時途絶えて宮廷が混乱したと伝えられる。
信仰の面では、レオーン5世以来の聖像破壊を受け継いだ。父より強圧的で、832年には聖像の崇敬を禁じる勅令を出し、従わぬ聖職者や修道士を弾圧した。837年に総主教とした文法家ヨハネスの影響があったとされる。妃テオドラも、イコンを持っていたことを咎められた。しかし政策は全国に広がらず、根強い反対に遭った。
長らく男子が生まれず、一時はアレクシオス・ムセレを婿としてカイサルに任じたが、840年に次男ミカエル3世が生まれた。皇帝は息子の成長を見ることなく没したが、その際、側近や高官を枕元に集めて後事を託したという。死後、テオドラは聖像破壊の政策を転換し、同時に夫の名誉を擁護した。史書には、公正な統治者、熱心な建設者、行政官としての姿と、聖像破壊への非難とが併せて残っている。
同じ年に亡くなった人物
- ムウタスィム (842年没)
- 劉禹錫 (842年没)
- ラン・ダルマ (842年没)
- Bishr the Barefoot (842年)
- アルフォンソ2世 (アストゥリアス王) (842年没)
同じ地域に関係する人物
- スアト・ハイリ・ウルギュプリュ (1981年没)
- Erol Keskin (2016年没)
- バシレイオス2世 (1025年没)
- ハサン・サカ (1960年没)
- Berkin Elvan (2014年没)