伝記
孝明天皇は、1831年7月22日(天保2年6月14日)、仁孝天皇の第4皇子として生まれた日本の第121代天皇である。諱は統仁といい、煕宮と命名された。実母は新待賢門院と呼ばれる藤原雅子、正妃は九条尚忠の娘の九条夙子である。明治天皇の父にあたり、一世一元の制の制定以前の天皇で、生涯を平安京内で過ごした最後の天皇でもある。1835年に儲君となり、同年11月に親王宣下を受けて統仁親王となった。1840年に立太子の儀が行われ、1843年には侍講に中沼了三を迎えた。1846年に仁孝天皇が崩御すると、3月10日(弘化3年2月13日)に践祚した。
即位後は、同年のうちに幕府へ海防強化と対外情勢の報告を命じ、幕府は異国船の来航状況を報告した。翌1847年には学習所(学習院)の開講式が行われ、即位の大礼も営まれた。代始の改元で元号は嘉永となった。1854年に日米和親条約が結ばれ、同年に内裏が炎上した。黒船来航、大地震、内裏炎上と続いたため、1855年1月に安政と改元した。1858年には日米修好通商条約の調印勅許を求めて堀田正睦が上京し、天皇は近衛忠煕ら三大臣らに開国か鎖国かを下問した。しかし朝廷の大勢は定まらず、結論は公武一和にて決める「定見なし」であった。鷹司政通は開国論を主張したが、天皇は容れなかった。九条関白に下した宸翰には、自分の代で開国に至っては後々までの恥となり、先代に対して不孝だという趣旨が記されている。4月には88人の公卿が列参して条約勅許に反対する廷臣八十八卿列参事件が起こり、天皇も再考を示唆した。
同年7月、幕府は勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印した。奉書が京都に着くと、天皇は大変怒っていたと九条関白の日記に記されている。その翌日の宸翰では、譲位して伏見宮や有栖川宮の親王に託したいとの意思を示し、驚いた一同に諫止された。その後、幕府と水戸藩に「御趣意書」を送る戊午の密勅が出され、幕府の側に傾いていた九条関白には辞職を求める内勅が下された。やがて幕府は安政の大獄で皇族や公卿を処罰する方針を固め、近衛忠煕、鷹司輔煕らが辞官落飾を求められ、天皇も1859年に落飾を勅許した。
1860年、幕府は和宮の将軍家降嫁を奏請し、天皇は当初これを宸翰で拒絶した。しかし、七、八年ないし十年のうちに条約の破棄か外国の撃攘かを行うという幕府の誓約を受けて勅許を決断した。当の和宮は拒んでいたが、ついに降嫁を受諾して江戸城に入った。長州藩の長井雅楽の「航海遠略策」は嘉納され、藩主毛利慶親は御製の和歌を賜った。1863年に家茂が上洛した際は攘夷の勅命を下し、賀茂神社や石清水八幡宮に行幸した。ただし、石清水への行幸は体調不良のなか三条実美らに脅されたと中川宮に宛てた書簡で告白しており、自身の意思であったかは疑問が残る。その後は幕府、一会桑、薩摩藩、長州藩、公家、志士の権力争いに巻き込まれて天皇自身の権威は低下した。1865年、諸外国が艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を迫ると、事態の深刻さを悟って勅許を出したが、保守的な姿勢は崩さなかった。1867年1月30日(慶応2年12月25日)に在位のまま没した。
同じ年に亡くなった人物
- フリードリヒ・ギュンター (シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯) (1867年没)
- マティルデ・フォン・エスターライヒ (1867年没)
- ジャン・ピエール・フルーランス (1867年没)
- イグナツィ・フェリクス・ドブジンスキー (1867年没)
- トマス・ブルフィンチ (1867年没)