伝記
狄仁傑は、唐代の政治家である。貞観4年(630年)に生まれ、久視元年9月26日(700年11月11日)に没した。字は懐英、并州太原県の出身で、高宗・中宗・睿宗・武則天に仕え、とくに武則天の治世では最も信頼されて長年宰相を務めた。祖父は尚書左丞の狄孝緒、父は夔州長史の狄知遜である。幼いころ、書を読みふけって責められると、聖賢の言葉が詰まった書をおいて俗吏の言葉に耳を傾ける暇はないと答えたという話が残る。
科挙の明経に合格して汴州参軍となったが、胥吏の誣告に遭った。このとき視察に来ていた画家としても名高い閻立本にその才を認められ、推薦されて并州法曹参軍に抜擢された。のち大理丞となり、1年のうちに獄に滞っていた罪人1万7千人を処理し、冤罪を訴える者は一人もなかった。儀鳳元年(676年)、権善才と范懐義が、依頼した樵夫に誤って太宗の昭陵の木を伐られた件で、高宗は大逆罪での処刑を表明し群臣も賛同した。狄仁傑だけが、陵域の木を切る者を死罪とする法はないと反対し、二人は死罪を免れて嶺南への流刑となった。数日後、彼は侍御史に昇進した。高宗が洛陽へ向かう際、妬女祠の祟りを避けて道を変える案が出ると、天子の行く道を妬女が害せるはずもないと退け、高宗から「真の大丈夫なり」と称えられた。
垂拱2年(686年)に寧州刺史となって異民族を安んじ、徳政碑が建てられるほどの人心を得た。垂拱4年(688年)には江南道巡撫大使として、呉楚に多かった淫祠千七百ヶ所を焚いた。豫州刺史のときには、越王李貞の反乱に連座して五千人が官奴とされ二千人が死罪となる状況にあったが、無実を密奏して武則天の許しを得、流罪に改めさせた。一方、討伐軍の責任者である宰相張光輔の賄賂の要求を拒み、降伏者を殺して手柄にしたことを責めたため、不遜として復州刺史、さらに洛州司馬へと左遷された。
天授2年(691年)に呼び戻されて地官侍郎・同平章事となったが、長寿元年(692年)、酷吏出身の来俊臣に謀反を告発された。拷問を緩めさせるためあえて罪を認めつつ自殺を図って懐柔を拒み、免状を衣の中に入れて子の狄光遠に渡した。これが武則天に届いて出獄し、彭沢県令に左遷された。万歳通天元年(696年)には契丹が冀州を陥落させて河北が動揺し、魏州刺史に任じられた。民を城に入れる備えを解いて農村に帰したところ、契丹は退いた。神功元年(697年)に鸞台侍郎・同平章事となり、同年、武承嗣と武三思が太子の座を狙った際には、叔母と甥より母子のほうが親しいのではないかと説いて武則天を諫めた。その結果、武則天は廬陵王李顕(中宗)を召還して皇太子に立てたと伝えられ、唐王朝に戻る基礎ができた。
久視元年(700年)に内史となり、武則天が仏教に傾くのを諫め、大仏製作の労役も中止されたという。武則天は彼を名で呼ばず「国老」と呼び、朝廷での討論では武則天が折れることが多く、拝礼と宿直を免じた。病気と老齢を理由に退職を願ったが許されなかった。この年に没すると武則天は涙を流し、「朝堂が空となった」と語り、後に朝廷で議論が決まらないときには、天はなぜ国老を奪ったのかと嘆いたという。文昌右相を贈られ、文恵と諡された。その後、中宗から司空、睿宗から梁国公を贈られている。彼が推挙した張柬之らは後に武則天を退位させて唐朝を再興し、登用した姚崇らは玄宗の開元の治を支えた。後世には公案小説『狄公案』の題材ともなった。
同じ年に亡くなった人物
- イブン・ハナフィーヤ (700年没)
- Eudokia (700年没)
- St. Alypius the Stylite (700年没)
- サジャーフ・ビント・ハーリス (700年(推定))
- Ubay ibn Ka'b (700年没)