伝記
イブン・ハナフィーヤ、本名ムハンマド・ブン・アリーは、第4代カリフ、アリー・イブン・アビー・ターリブの息子である。イスラーム暦16年に生まれ、81年に亡くなったとされ、西暦では637年または638年生まれ、700年または701年没にあたる。母ハウラは、かつてムスリム共同体から離反した部族の女性で、戦後に捕虜としてマディーナへ連行されていた。10世紀の『歌の書』によれば、アリー家の家内奴隷であったらしい。アリー家を訪れたバヌー・ハニーファ部族の者がハウラに気づき、部族の面目を保つために解放を願い出ると、アリーは彼女を身請けして自由の身にした。イブン・ハナフィーヤはこのハウラのただ一人の子である。
父の存命中、彼は敬虔で正直なうえ、戦場では勇猛で有能であることを示した。アリーがカリフとなってクーファで政務を執ると、カリフを補佐する四長官の一人になった。ラクダの戦いやスィッフィーンの戦いでも武勲を立て、アリーはスィッフィーンでの戦いぶりを見て、彼を自分の右腕と評したという。戦場では父の旗手を務めたともいわれる。
アリーは661年1月にクーファで暗殺され、長男ハサンが後を継いだがその年のうちに退き、669年にマディーナで没した。その後は弟のフサインが一族の長となった。フサインがウマイヤ家に対抗してクーファで挙兵しようとメッカにいたとき、イブン・ハナフィーヤは、クーファの人々は父アリーも兄ハサンも裏切ったのだから、行けば同じ目に遭うと警告した。フサインは、メッカにいてもいずれヤズィードに殺され、聖都が血で穢れると答えた。そこで彼はイエメンへ逃れることを提案した。翌日フサインは、祖父ムハンマドが夢に現れ、クーファ行きは殉教の旅になるが引き受けるかと告げたと語った。フサインはカルバラーで一族とともに殺され、生き残った息子アリー・ブン・フサインは幼くして政治から退き、礼拝に生きる日々に入った。
こうして、イブン・ハナフィーヤがアリー家の代表として目立つ存在になり始めた。686年にクーファで挙兵したムフタール・サカフィーは、その挙兵を彼の名において行った。ただし本人は、この反乱に積極的に関わらなかったとも伝えられる。688年の大巡礼では、4人の男がそれぞれ支持者を率いて儀式を進め、みな信徒共同体の統率者を名乗るという異例の事態になった。その一人がアリー派を率いる彼で、ほかにメッカを支配するアブドゥッラー・ブン・ズバイル、ウマイヤ家のアブドゥルマリク、ハワーリジュ派のナジュダがいた。彼は「正しく導かれた者」を意味する「マフディー」と呼ばれたが、当時の文脈では、知性や人格、他の請求者への公正な態度によって得た信頼を示す称号にすぎなかったという。692年にはダマスクスへ赴き、アブドゥルマリクに臣従の誓いを行った。
700年にマディーナで亡くなったが、ほどなく、彼はまだ生きているという噂が広まった。マディーナ近くに隠遁し、野生の動物に食べ物を分けてもらい守られて暮らしており、やがてアッラーが再びこの世に遣わし、正義と真の信仰を打ち立てるというのである。ペルシア湾内のハールグ島の岩の中のモスクに隠遁しているという説もある。「マフディー」が救世主の意味をもつようになったのは、この伝説が確立してからのことである。彼を指導者とあおぐ人々はカイサーン派と呼ばれ、のちにこの派はアッバース家がウマイヤ朝を倒す際の組織の骨格を提供したとされる。
同じ年に亡くなった人物
- クマーリラ (700年(推定))
- ディンプナ (700年(推定))
- クニペルト (700年)
- 小野妹子 (700年(推定))
- ヘリオポリスのカリニコス (700年(推定))
同じ地域に関係する人物
- Utba ibn Rabi'ah (624年没)
- アーイシャ・ビント・アブー・バクル (678年没)
- Abd Allah ibn Ubayy (630年没)
- Ubay ibn Ka'b (700年没)
- アブー・サラマー (625年没)