伝記
柱頭行者アリピオスは、7世紀の禁欲修道者であり聖人である。修道院の創設者として、また子のない人々のためのとりなし手として敬われる。生前は、キリスト教の霊的生活を導く師スターレツとして、多くの人に求められた。
パフラゴニアのハドリアノポリスに生まれた。ヘラクレイオス帝の時代とされ、3歳のときに父を亡くしたともいう。早くに寡婦となった母は敬虔で、息子を司教テオドロスのもとで学ばせ、生活の糧のすべてを貧しい人々に与え、自らも女執事となって禁欲の生活を送った。聖書の学びと教会への奉仕のために預けられたアリピオスは、その才能と信心を認められて教会の管理役に任じられ、定められた年齢に達すると助祭に叙された。務めを果たしたのち、財産を貧者に施して聖地で修道生活を送ろうと考え、司教や民衆に妨げられぬよう密かに出発した。しかしエウケタまで行ったところで司教に追いつかれ、説得されて戻った。その慰めとして、ベツレヘム、エルサレム、ナザレ、ゴルゴタの幻を見たという。帰ると、幻に導かれて乾いた山の水の湧く場所に礼拝堂を献じて小さな庵を建てたが、司教は町に戻らせようとして水源をふさいだ。
隠修を志したが司教テオドロスは許さなかった、とも伝えられる。その後、悪霊が出ると噂され、古い墓や打ち捨てられた異教の聖所が並ぶ場所に居を定めた。そこで、キマイラの像を頂いた柱を見つけると、町から十字架と道具を取ってきて像を倒し、十字架に置き換えた。のちに司教を追って帝都コンスタンティノポリスへ向かったが、カルケドンで司教が先へ進んだ後も、アリピオスはそこにとどまった。聖バッサの祈祷所で眠ると聖エウフェミアの幻を見て、故郷に帰り、示された場所に礼拝堂を建てよと命じられた。自分の財産がなかったので、友人たちが費用を用意した。荒れた異教の神殿の跡に大殉教者エウフェミアをたたえる教会を建てたとも伝わる。
このとき30歳ほどで、教会の近くの狭い独房にこもり、2年間、祈りと断食と徹夜の祈祷に過ごした。評判が広まると祝福を求める人々が訪れたが、彼はこれを禁欲生活の妨げと考え、教会のそばに柱を建ててその上に住むことにした。狭くて座ることも横になることもできず、粗末な木の屋根だけを頼りに53年間立ち続けたという。悪霊に絶えず悩まされたが、揺るがぬ信仰で打ち勝ったと語られる。群衆が集まって彼を見ようとし、とりなしを願った。エウフェミアとエウブラという二人の女性は、のちに礼拝堂の女子修道院長になった。やがて柱の反対側に、従う男たちのための修道院も創られ、二つの修道院の霊的指導者を務めた。預言の賜物を得て病人を癒し、敵同士を和解させ、神の知恵を直接にも手紙でも授けたといわれる。
53年たつと麻痺で足が体を支えられなくなったが、柱を降りず、横向きに寝て残る14年を過ごした。潰瘍にも苦しんだ。没年は640年とされ、年齢は118歳とも99歳ともいわれる。遺体は敬われ、憑かれた人がその遺体の前で癒されたと語られた。遺骸は自らが建てた聖エウフェミア教会に葬られ、頭部はアトス山のクトゥルムシウ修道院に保存されている。正教会、ビザンティン典礼の東方カトリック教会、ローマ・カトリック教会で11月26日に記念される。柱頭行者大シメオン、ダニエルとともに、三大柱頭行者の一人に数えられる。ハーバート・サーストンは、柱頭行者たちが腐敗と社会の退廃の時代に、何にもまして悔い改めの必要を東方のキリスト教徒の心に刻んだと述べている。
同じ年に亡くなった人物
- イブン・ハナフィーヤ (700年没)
- シリアのイサアク (700年)
- Sirin bint Sham'un (700年没)
- クマーリラ (700年(推定))
- 狄仁傑 (700年没)
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