HISTORICAL PERSON · 271年没

劉禅

蜀漢の第2代皇帝。長坂の戦いで趙雲に救われ、父劉備の死により17歳で即位。諸葛亮らに政務を任せ、死後は蔣琬や費禕に支えられたが、のち宦官の黄皓を信用して政治が弛緩し、魏に降伏した。

生涯
271年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 洛陽市)
出生地
中華人民共和国(新野県)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

劉禅(りゅうぜん)は、三国時代の蜀漢の第2代皇帝である。魏に降伏したため皇帝としての諡は本来ないが、漢の後継を称した劉淵によって諡を贈られた。207年、父の劉備が劉表に身を寄せて荊州の新野にいたとき、側室の甘氏との間に生まれた。翌年に曹操が荊州を攻めた際には趙雲に救われて九死に一生を得ており。劉備が漢中王になると太子となり、221年の夷陵の戦いでは、呉の孫権の征伐に向かった劉備から成都の留守を任された。

223年、劉備の崩御に伴い17歳で皇帝に即位し、政務を諸葛亮らに任せて国を守った。諸葛亮は蔣琬や費禕ら多くの人材を招いて夷陵で失った人材を補い、225年の南征で蜀南部を安定させたのち北伐を重ねた。228年の街亭の戦いでは馬謖の抜擢が裏目に出たが、229年には武都・陰平の2郡を蜀に組み込んだ。231年には司馬懿らを破り、追撃してきた張郃を討ち取ったが、輸送の失敗をごまかして罪を転嫁しようとした李厳は、諸葛亮の上奏にもとづいて罷免された。234年、魏との対陣中に諸葛亮が死去すると、劉禅は白い喪服を着て3日間哀悼の意を表し、その死を喜ぶ上表をした李邈を怒って処断した。後宮の人員増員を求めたり遊興や行幸を重ねたりして、董允や譙周に諫められたともいう。

諸葛亮の没後は、遺表に従って蔣琬が録尚書事・大将軍に任じられ、成都の政は費禕に委ねられた。244年に曹爽・夏侯玄の率いる魏軍が漢中に侵攻した際は、王平の督戦で撃退に成功した。蔣琬と董允が246年に没すると、後任には遺表どおり費禕が就いた。蔣琬の死後から劉禅が自ら政治を見るようになったとも記されるが、大赦が濫発されて政治は弛緩し、宮中は奢侈に流れた。董允の死で宦官の黄皓の台頭を抑える者もなくなり、劉禅の黄皓への信用は高く、弟の劉永ですら宮中から遠ざけられた。249年に夏侯覇が亡命してくると、劉禅は「あなたの父君は戦陣で命を落とされたのだ。私の父が殺したのではない」と述べ、自分の子を指して夏侯氏の甥にあたると語り、手厚く恩賞を与えたという。253年に費禕が刺殺されたのち、姜維が大規模な北伐を繰り返したが、256年の段谷の戦いで鄧艾に大敗してとん挫し、連年の出兵で国力は疲弊した。258年に陳祗が没すると黄皓が実権を握り、262年に姜維が黄皓を除くよう上表したときも、劉禅は拒否した。

263年に魏が大規模に攻め込むと、黄皓は敵は来ないという占いを劉禅に信じさせ、防衛は後手に回った。綿竹で諸葛瞻が討ち取られると抵抗の手段を失った。劉禅は南方か呉への逃亡も考えたが、譙周の勧めに従って降伏し、降伏の作法どおり自らを縛り棺を担いで鄧艾のもとを訪れたという。五男の北地王劉諶は抗議して一家心中した。264年には姜維から蜀再興の手紙を渡されたというが反乱は失敗し、姜維ら旧臣の多くと太子の劉璿を失った。劉禅は生き残った子らと洛陽に移され、供をした家臣は郤正などわずかだったといわれる。のちに安楽公に封じられた。

洛陽で司馬昭に宴に招かれた際には、蜀の音楽に旧臣が涙するなか劉禅は笑っていたという。蜀を思い出すかと問われて、ここは楽しく思い出すことはないと答えたが、郤正の助言どおり、先祖の墳墓が蜀にあり悲しまぬ日はないと答え直したところ、司馬昭に郤正の言葉と同じだと指摘され、驚いて認めて大笑いになった。この逸話から、助けようのない人物をさすことわざが生まれたとされる。271年、65歳で死去し、西晋から思公と諡された。後を継いだ劉恂は道義を失う振る舞いを重ね、永嘉の乱で一族皆殺しにされ、劉禅の直系子孫は断絶した。

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