HISTORICAL PERSON · 323年没

元帝 (東晋)

東晋の初代皇帝。西晋の皇族で、王導の献策に従い建業へ赴き江東を治めた。西晋滅亡後に江南の貴族の支持で318年に即位したが、皇帝権力は弱く、王導や王敦ら琅邪王氏に軍権を握られ、王敦の反乱に遭った。

生涯
323年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(河南省 / 洛陽市)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

元帝は、東晋の初代皇帝である。諱は睿、字は景文。河内郡温県の人で、276年に洛陽で生まれた。西晋の琅邪恭王司馬覲の子で、祖父は琅邪武王司馬伷、曾祖父は宣帝司馬懿にあたる。生母は夏侯光姫である。一方、東晋の史家孫盛の著作に由来するとして、夏侯氏と曹魏の将軍牛金の一族との間の子だという噂も伝わり、北斉で編纂された『魏書』は牛金の隠し子と主張している。

290年に父が35歳で急逝し、15歳で琅邪王に封じられた。この年に武帝が崩じ、翌年には八王の乱が始まった。司馬睿は乱の中で政治から距離を置き、才を隠して身を守ったといわれ、侍中の嵇紹は「琅邪王は並の人臣とは違う風貌をしている」と評した。304年には東海王司馬越に従い、成都王司馬穎の討伐に加わったが失敗し、恵帝とともに鄴で司馬穎の監視下に置かれた。叔父の司馬遥が司馬穎に殺された後、司馬越の補佐だった王導の助言もあって鄴を脱出し、洛陽で母と合流して封国の琅邪に戻った。黄河の渡し場では、貴人の通行を止める命令のために留められそうになったが、遅れて追いついた従者が馬を鞭で叩き、「お前も止められたのか」と笑ってみせたため、役人は通行を許した。

司馬穎が司馬越に殺された後、永嘉元年(307年)に司馬睿は安東将軍・都督揚州諸軍事とされ、建業に赴任した。司馬越が妻の裴妃の助言を容れて任じたともいわれる。この地は305年から307年まで反乱した将軍陳敏に支配され、江南の名族は一時これを支持したが、不満を抱いて陳敏を倒し、晋に戻っていた。朝廷の衰えを見通した王導の献策に従ったもので、母は着任の最初の年に没したとされる。赴任当初は無名で、江南の名族はほとんど訪ねてこなかったが、王導の助言で賀循や顧栄を訪ね、幕府に招いて厚くもてなし、やがて地元の信頼を得て江東をよく平定したといわれる。王導とその従兄の王敦が要職を占め、当時「王と馬と天下を共にす」といわれた。永嘉4年(310年)には、寿春への遷都を唱えた周馥を司馬越が討たせ、懐帝の江南遷都は不可能となった。司馬越は北方で反乱の鎮圧や漢との戦いに追われ、司馬睿はその手の届かない江南にあって、当初は長江以北の揚州を押さえる周馥を牽制する必要があった。311年2月、周馥が朝廷に責められて反乱に追い込まれると、司馬睿は軍を北へ進め、揚州の残りを併せた。

永嘉5年(311年)に洛陽が陥落して懐帝が平陽に連れ去られると、司空の荀藩に推されて盟主となり、従わなかった江州刺史の華軼を討って江州を支配下に置いた。建興元年に愍帝が即位すると、丞相・大都督・中外諸軍事として江東の政務と軍事を取り仕切った。建興4年(316年)に愍帝が捕らえられて西晋が滅ぶと、江南の貴族や豪族の支持を受け、晋室最後の生き残りとして建武元年(317年)に晋王となり、大興元年(318年)に皇帝に即位した。

しかし亡命政権である東晋の皇帝権力は弱く、同じ皇族の南陽王司馬保は従わず、勝手に晋王を称した。軍権は王導・王敦らに握られたため、元帝は腹心の劉隗と刁協を要職に就けて琅邪王氏の力を徐々に削ろうとした。ところが永昌元年(322年)に王敦が反乱を起こし、刁協・戴淵・周顗らが殺され、劉隗は後趙へ逃れた。王敦にも東晋を滅ぼす力はなく、王敦の軍権を認める条件で同年中に元帝と和睦した。まもなく元帝は48歳で崩じた。長男の明帝司馬紹が第2代皇帝となり、六男の簡文帝司馬昱も後に第8代皇帝に立った。東晋はその後、420年まで続いた。

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