伝記
仁宗は、北宋の第4代皇帝である。諱は初め受益、のち禎。1010年5月30日に生まれ、1022年から1063年4月30日まで約41年在位した。宋の歴代皇帝の中で最も在位が長い。父は第3代皇帝真宗で、その六男にあたる。実母は真宗の側室の李宸妃だったが、真宗の皇后(章献明粛皇后、劉皇后)が嫡母となり、同じく側室の章恵太后のもとで育てられた。
1022年(乾興元年)に真宗が没すると、12歳で皇帝に即位した。幼少の即位だったため、嫡母の劉皇后が摂政として垂簾聴政を行った。1027年には仁宗は自ら政治をとれる年齢になっていたが、劉皇后は退かず、1033年(明道2年)に没するまで実権を握り続けた。英邁な資質をもつ皇帝とされ、多くの人材を登用した。治世の年号は天聖、明道、景祐、宝元、康定、慶暦、皇祐、至和、嘉祐と改められた。
当時の宋は文治主義に偏って軍事力が弱まり、西夏などの圧迫を受けていた。西夏は宋の軍事の衰えにつけ込み、国境付近で小規模な戦争をしかけた。党項(タングート)の首領李元昊は1038年に大夏の皇帝を名乗り、仁宗に対等の承認を求めた。宋の朝廷は彼を藩主としては認めたが「皇帝」とは認めなかった。外交交渉を重ねた末、1043年に西夏は宋の皇帝の立場を認め、その代わりに毎年の贈り物を受け取ることになった。これは宋が西夏の軍事力を暗黙のうちに認めたことを意味した。仁宗は常備軍の強化を命じる一方、西夏と対立する遼に対しては銀などの贈り物を重ねて友好を保とうとした。しかしその財源のために重税が課され、農村は荒れ、各地で民衆の反乱が起こった。儂智高の乱もその一つとされる。
社会の不安を改革しようと、1040年から1045年ごろに慶暦の新政が行われた。范仲淹、富弼、韓琦、欧陽脩らが唱え、農業生産の強化、土地の開墾、下級の行政単位の削減、地方の民兵の組織による国防の強化と軍事費の削減などを目指した。だが保守派の抵抗にあい、范仲淹が職を退くと廃止された。短期間で終わったものの、のちのより大規模な改革の先駆けと見なされる。改革を求める党派が現れた時代でもあり、のちの新法・旧法の争いに代表される権力闘争の原型が形づくられた。この治世は「慶暦の治」とも呼ばれる。文化の面では、晏殊、范仲淹、欧陽脩、梅尭臣ら著名な文人が活動し、文学が栄えた。1057年の科挙では曾鞏、蘇軾、蘇轍が及第し、父の蘇洵も同行したという。天文や暦、印刷、農業、土木、軍事の技術にも進歩があったとされる。また、孔子の46代目の子孫に衍聖公の称号を与えた。中国の著名な皇帝に比べると知名度は高くないが、宋の勢威が頂点に達した時代であると同時に、その後1世紀半以上続く緩やかな衰退の始まりでもあったとされる。
正室は郭皇后(のち廃された)、継室は曹皇后で、ほかに張貴妃、乳姉妹の苗徳妃ら多くの側室がいた。しかし趙昉、趙昕、趙曦ら皇子はいずれも夭折し、公主にも幼くして亡くなった者が多かった。長女は李瑋に嫁いだが、のちに生き別れとなったという。1063年(嘉祐8年)、嗣子のないまま病死した。帝位は、息子たちが早世したため、従兄弟の子にあたる趙曙(英宗)が継いだ。後世の作品では、井上祐美子の小説『桃花源奇譚』に主要人物の一人として登場し、テレビドラマ『開封府〜北宋を包む青い天〜』『孤城閉〜仁宗、その愛と大義〜』『大宋宮詞〜愛と策謀の宮廷絵巻〜』にも描かれている。
同じ年に亡くなった人物
- グリフィズ・アプ・サウェリン (1063年没)
- クタルミシュ・イブン・アルスラーン・イスラーイール (1063年没)
- アルベール2世 (1063年没)
- Constantine Leichoudes (1063年没)
- ラミロ1世 (アラゴン王) (1063年没)