伝記
裴秀(はい しゅう)は、中国三国時代の魏から西晋にかけて活躍した政治家・学者である。字は季彦、本貫は司州河東郡聞喜県。父は裴潜で、子に裴濬・裴頠がいる。224年の生まれとされ、泰始7年(271年)に没した。
幼いころから学問を好み、8歳で文章を綴り、行いには気品と節義があったという。生母は身分が低く、正室の宣氏に軽んじられて来客の給仕をさせられていたが、彼女が気丈にこれに従ったので宣氏は給仕をやめさせ、人々は裴秀を裴氏の後継と認めるようになった。官歴は毌丘倹の推挙により、大将軍曹爽の属官から始まる。正始5年(244年)に父が亡くなると爵位を継いだが、財産は兄弟に譲った。黄門侍郎に欠員が出ると、何晏によって賈充らとともに任用された。正始10年(249年)に曹爽が処刑されると免職となったが、のちに廷尉正として復職した。司馬昭の属官になると軍政について意見を述べ、その多くが採用された。散騎常侍に転じるころには魏帝曹髦に敬愛され、討論会に参加して儒林丈人と称された。甘露2年(257年)には諸葛誕の乱を討つ親征に同行し、臨時の尚書台の運営や謀略に携わって、乱の平定後は尚書・魯陽郷侯となり1000戸を増邑された。景元元年(260年)に曹奐が即位すると、擁立に参与した功で尚書僕射に進み、700戸を増邑された。
司馬昭は庶子の司馬攸を兄司馬師の後嗣とし、世子に立てようと考えていたが、裴秀らは嫡子の司馬炎を立てるよう強く勧めた。咸熙元年(264年)5月、司馬炎は晋王の世子となった。これに先立ち、世子になれないことを恐れた司馬炎は裴秀に、人には高貴となる相というものがあるのだろうかと尋ねたという。同年の制度改革では、荀顗が礼儀を定め、賈充が法律を正し、裴秀は官制を改めた。五等爵復活の建議にも功があり、済川侯に封じられた。咸熙2年(265年)に司馬昭が没して司馬炎が晋王を継ぐと尚書令・光禄大夫となり、同年12月の魏から西晋への禅譲の儀では要となる役割を担い、その差配は礼式に違わなかった。鉅鹿公に封じられて3000戸を領し、泰始4年(268年)正月には司空に昇進した。
泰始7年3月7日(271年4月3日)、48歳で死去し、元公と諡された。死因は、寒食散を服用した際に熱燗ではなく誤って冷酒を飲んだためとされる。同時代の皇甫謐の記述によれば、薬による発作で何日も体温の高低が繰り返され、呼吸困難や視線の定まらない状態が続いた。周囲は解毒法に従って大量の冷水を飲ませ、冷水浴も施したが回復せず、体温を奪われて水中で絶命したという。生前、尚書が政治を統べるのは旧例に反し、その役割は九卿が担うべきだと考えていたが、上奏を前に世を去った。臨終に先立って記した呉討伐を訴える草稿は没後に司馬炎へ届けられ、司馬炎は病床にあっても国事を憂えた忠節を称えた。咸寧年間の初め、石苞らと並んで晋王朝の廟庭に祀られた。長男の裴濬が後を継いだが早逝し、裴濬の子は後継にふさわしくないとされたため、次子の裴頠が継いだ。
裴秀は朝儀を創始し、刑罰や政治についても広く意見を述べ、その多くは採用されて故事となった。儒学に通じ、易経や楽経についての論文を著した。土地を管轄する地官としても功が大きく、当時としては非常に精巧な地図である『禹貢地域図』『地域方丈図』などを作り、縮尺・距離・方位などの基本方針を定めた製図法『製図六体』を考案して、中国の地理学史に大きく貢献した。官有の稲田の横領を指示したとして李憙に弾劾されたことがあるが、司馬炎は庇って罪に問わなかった。