伝記
メロダク・バルアダン2世は、バビロン第10王朝の王である。アッカド語ではマルドゥク・アプラ・イディナと呼ばれ、メロダク・バルアダンは聖書などで用いられるギリシア語を経由した通称である。海の国の王ヤキンの息子で、カルデア人の王であったと伝えられるが、アラム人でビト・ヤキンの出身とする説明もある。在位は紀元前721年(722年とも)から前710年と、復位した前703年から前702年にかけての二度である。バビロニアの支配をねらうアッシリアにとって最大の障害となったが、最後は敗れ、バビロニアがアッシリアの支配を脱することはなかった。
当時すでにバビロニアはアッシリアの支配下にあった。前729年、アッシリアのティグラト・ピレセル3世がバビロニアの王ナブ・ムキン・ゼリを倒したとき、海の国の王であった彼は、自ら出向いて勝者に貢納したという。前722年、アッシリアの新王サルゴン2世が即位して間もない時期に、国内の反乱に悩まされていると、いったん暫定的な合意を結んだともいわれる。その後、シャルマネセル5世の死去に乗じ、エラムの支援のもとで反乱を起こしてバビロニア王となった。サルゴン2世は支持基盤が弱かったため、アッシリアにその王位を認めさせることができた。
しかし、サルゴン2世は西方の反乱を鎮めると、前710年にバビロニアの奪還に乗り出した。メロダク・バルアダン2世は迎え撃ったが、期待したエラムの援軍は届かず、敗れて退いた。エラムへ逃れたとも、海の国の湿地へ逃れたともいわれる。バビロンはアッシリア軍に占領され、この結果、バビロニアの王位は再びアッシリアの手に渡り、サルゴン2世がバビロニア王に即位した。
メロダク・バルアダン2世はエラムの庇護を受けて機会を待ち、前705年にサルゴン2世が死ぬと、バビロンへ進軍した。バビロンでは、かつての配下であった人物もアッシリアに反乱を起こしていたが、これを打倒し、前703年に再びバビロニア王に返り咲いた。マルドゥク神殿エサギラの財宝を使ってエラム王シュトゥルク・ナフンテ2世の派兵を取りつけたともいい、このとき倒した相手はバビロニア王マルドゥク・ザキル・シュミ2世だとする説明もある。アッシリアの新王センナケリブは軍を差し向け、両者はキシュの平野で激突した。バビロニア軍は敗走し、王は戦車や馬を置き去りにして逃げた。センナケリブは追撃したが、湿地帯に逃げ込んだ王はそれを逃れ、再びエラムに身を寄せた。センナケリブはバビロニアを再び征服し、メロダク・バルアダン2世の血族の一人を傀儡の王に立てたが(アッシリアで育ったバビロニアの貴族ベル・イブニだとする説明もある)、その王もやがてアッシリアに背いた。前700年にもセンナケリブは軍を送ったが、王は捕らえられず、アッシリア軍は彼の兄弟や数人の王子たちを捕らえたにとどまる。王はその後も再起の機会を得ず、数年後にエラムの亡命先で没したとされる。
聖書にも名がみえる。列王記下20章と、イザヤ書39章によれば、バビロンの王メロダク・バルアダンは、ユダの王ヒゼキヤが病んだと聞いて、手紙と贈り物を持たせた使節を送った。ヒゼキヤは喜んで迎え、宝物の蔵や武器倉など、家にも国にもある物をすべて見せた。預言者イザヤは、その財宝や子らがいつかバビロンへ運び去られると告げて王を戒めた。バビロニア人はオリオン座をこの王に見立てたともいわれる。
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