伝記
ヘリオガバルスは、ローマ帝国第23代皇帝で、セウェルス朝の第3代当主である。本名はウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌスといい、203年(204年とも)にシリアのエメサ(現在のホムス)で生まれた。父マルケルスは騎士階級の出身で、のちに元老院入りした人物とされる。母方の祖母ユリア・マエサはエメサの大祭司の娘で、セウェルス朝を開いたセプティミウス・セウェルスの皇妃ユリア・ドムナの姉であった。母ユリア・ソエミアスはカラカラ帝の従姉にあたるため、彼は皇帝家の一員だった。幼少期は母方一族の生業である神官として養育されたとみられ、長じて土着の太陽神エーラーガバールの司祭を務めた。ヘリオガバルスあるいはエラガバルスという通称は、この神の名に由来する。彼は際立った美貌に恵まれ、歌も上手で、聞いた人が涙するほどだったと伝えられる。
217年4月8日、暴政で元老院の信望を失っていたカラカラ帝がメソポタミアのハッラーンで暗殺された。子のなかったカラカラに代わり、クーデターの首謀者であった近衛隊長のマクリヌスが、騎士身分から初めて皇帝となった。マクリヌスはセウェルス一族を宮殿から一掃してセウェルス朝の復活を防ごうとし、一族はシリアに幽閉された。だがパルティアに敗れて屈辱的な講和を結んだため、軍の信頼を失っていた。この機に、カラカラの伯母にあたるユリア・マエサが孫を帝位に就ける陰謀をめぐらした。少年の母ソエミアスは、自分がカラカラの愛人であったと公言し、少年はカラカラの落胤だと主張した。これはマエサの意向を受けたもので、彼女は娘を不貞の女にしてでも孫を皇帝にしたかったのだと伝えられる。マエサはカラカラの威光を利用し、セウェルス家の富で第3軍団ガッリカの兵士や将軍を買収して戦力を整えた。
218年5月16日の夜、少年の一行はエメサに駐屯する軍団に入り込み、軍団は忠誠を宣言した。挙兵に際し、彼は名をカラカラの本名になぞらえてマルクス・アウレリウス・アントニヌスと改めた。マクリヌスは遠征軍を派遣したが、軍団兵の内乱が起き、兵は指揮官を殺してヘリオガバルス側へ合流した。マクリヌスは彼を「偽のアントニヌス」と罵り、反乱は発狂した神官の暴挙だと元老院に書き送り、元老院もヘリオガバルスを僭称帝とする決議を行った。自ら軍を率いたマクリヌスは、マエサに買収された第2軍団パルティカの裏切りもあって敗れ、逃げる途中のカッパドキアで捕らえられて斬首された。子のディアドゥメニアヌスも処刑された。ヘリオガバルスは元老院の許可なしに即位を宣言し、218年6月、元老院は既成事実を追認して彼を帝位に認め、カラカラの実子であることも承認した。マクリヌスはダムナティオ・メモリアエに処された。
218年の冬を小アジアのニコメディアで過ごした後、一行はローマへ向かったが、途中で軍団の反乱があり、隕石とされる円錐形の「黒い石」を御神体としてエメサの神殿から運んだこともあって遅れ、219年の初秋にようやく到着した。入城した彼は、紫地に錦糸をあしらった長袖の司祭服と豪奢な装身具、宝石の帝冠を着け、絶世の美少女のようだったと当時の歴史家は伝える。その統治は、エーラーガバールを主神に据えるなど従来の宗教の慣習を改めたことで異例とされ、一方で貧しい人々に食事や生活用品を施したともいわれる。性的な逸話の多くは政敵による誇張とみられ、後世は評価が分かれ、ギボンは「最悪の暴君」とした。彼は222年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- 張遼 (222年没)
- バルダイサン (222年没)
- カリストゥス1世 (ローマ教皇) (222年没)
- ユリア・ソエミアス・バッシアナ (222年没)
- 馬良 (222年没)
同じ地域に関係する人物
- パウル・ブリル (1626年没)
- ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ (1957年没)
- マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス (238年没)
- ピエロ・ピッチオーニ (2004年没)
- ルチアーノ・ベリオ (2003年没)