HISTORICAL PERSON · 222年没

張遼

丁原・董卓・呂布に仕えたのち曹操の配下となった武将。白馬の戦いで関羽と先鋒を務め顔良の軍を破り、白狼山の戦いで烏桓を大破。陳蘭・梅成の討伐では功績を特に称えられ、領地倍増と仮節を得た。

生涯
222年没
死亡地
中華人民共和国(江蘇省 / 江都市)
出生地
中華人民共和国(朔城区)
出典
世界地図
中華人民共和国(江蘇省)

伝記

張遼(字は文遠)は、後漢末期から三国時代の武将である。并州雁門郡馬邑県の出身で、生年は165年とも169年ともいわれ、222年に没した。前漢の聶壱の子孫とされる。若くして郡吏となり、武力が人並み外れていたことから并州刺史の丁原に見出されて従事となった。何進の命で河北へ赴き、募兵で1000人を集めて帰還したときには何進はすでに宦官に殺されており、張遼は兵を率いたまま董卓の配下に入った。董卓が王允と呂布に暗殺されると呂布に仕えて騎都尉となり、初平3年(192年)に李傕・郭汜が長安を攻めると、敗れた呂布に従って長安を出た。呂布が徐州を支配すると魯国相に任じられた。

建安3年(198年)、高順とともに小沛の劉備を攻め、救援に来た夏侯惇を敗走させたが、同年12月に呂布が下邳で曹操に敗れて処刑されると、麾下の将兵とともに曹操に降り、中郎将・関内侯となった。建安5年(200年)の白馬の戦いでは、劉備からの降将である関羽とともに先鋒を務めて顔良の軍を破り、裨将軍に昇進した。関羽を兄弟と呼ぶほどの親交があったという。東海で反乱した昌豨を夏侯淵とともに包囲し、説得して降伏させた。

その後も袁氏の討伐に従い、鄴城の攻略後は趙国・常山郡を制圧した。建安11年(206年)に鄴へ帰ると、曹操は自ら出迎えて手を引いて車に乗せ、張遼は盪寇将軍となった。建安12年(207年)の柳城遠征では、曹操に交戦を勧め、旗を授けられて張郃とともに先鋒となり、烏桓を大破した。建安14年(209年)には陳蘭・梅成の反乱の討伐に赴き、険しい山中で部下の反対を押し切って二人を斬り、軍勢を降伏させた。曹操はその功を特に称え、領地を倍にした。当時、于禁・楽進・張郃・徐晃とともに名将と謳われ、出征のたびに五人が交代で、進攻では先鋒、撤退では殿軍を務めたという。

建安20年(215年)8月、張遼は楽進・李典とともに合肥に駐屯していたが、孫権が10万と号する大軍で攻め寄せた。曹操は漢中遠征中で、護軍の薛悌に託した指令は、張遼と李典が出撃し、楽進は城を守れというものだった。三人は不仲だったが私怨を捨てて協力し、精兵800人を選び、翌朝出撃した。張遼は自ら先鋒となって敵陣に突入し、数十人と将校2人を斬って孫権に迫り、孫権は戟を持って戦いながら退いた。包囲されると正面を突破し、取り残された兵を助けに引き返してまた脱出し、半日戦い続けたとされる。この奮戦で曹操軍は士気を高めて城を守り通し、孫権は十数日の包囲ののち、疫病もあって撤退した。張遼は7000余の騎兵で追撃し、逍遥津で孫権を窮地に追い込んだ。戦後、呉の降兵に紫の髯の将軍が孫権だったと聞くと、知っていれば捕らえられたと惜しんだという。この功で征東将軍となった。

建安22年(217年)の濡須口の戦いでは臧覇とともに先鋒を務め、のち居巣に留まった。延康元年(220年)に曹丕が王位に即くと前将軍となり、帝位に即くと晋陽侯に封じられた。黄初2年(221年)に入朝すると、曹丕は武勇を召虎に例えて称賛し、邸宅を建て、合肥で突撃した兵を近衛兵に取り立てた。黄初3年(222年)、病身のまま孫権討伐に出て呂範を破ったが、その後病が重くなり江都で亡くなった。享年は58歳とも54歳ともいう。曹丕は涙を流して悼み、剛侯と諡され、子の張虎が継いだ。陳寿は、張遼を楽進・于禁・張郃・徐晃とともに一つの巻に収め、その筆頭に置いた。唐の時代に選ばれた六十四名将にも数えられる。

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