伝記
マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムスは、「六皇帝の年」と呼ばれる238年にローマ皇帝となった人物である。同時代の文献では、家名のプピエヌスよりも添え名のマクシムスで呼ばれることが多い。生年は諸説あり、164年ごろとも165年から170年ごろとも178年ごろともされ、没年は238年7月29日とされる。バルビヌスとの共同統治は99日間で、この時期の史料は乏しく、皇帝についての知識は限られている。
出自については、『ローマ皇帝群像』が、鍛冶屋の息子で、あるペスケンニア・マルケッリナの養子となり、百人隊長から軍団の幕僚、法務官へと進んだと記し、その経歴を手柄による昇進の例として描いている。同書はビテュニア・ポントゥスやアカイア、ガリア・ナルボネンシスの総督を務めたとも記すが、その証言は無条件には信用できず、当時ビテュニア・ポントゥスは皇帝直轄で総督は皇帝の副官だったこと、法務官級の総督職を三つも務める例が他にないことから、この主張は疑わしいとされる。実際には小さいながら貴族階級の一員で、エトルリアの都市ウォラテッラエの出であり、元老院に初めて入った同名のマルクス・プピエヌス・マクシムスと、その妻クロディア・プルクラの子だったのではないかと推測されている。妻はセクスティア・ケテギッラで、2男1女をもうけたとされる。
執政官を務めた222年ごろより後の経歴は、比較的信頼できるとされる。最初の補充執政官に就いたと見られる207年ごろの後、ゲルマニアの属州に皇帝の副官として派遣され、サルマティア人やゲルマン諸部族に対して軍事上の勝利をあげたという。属州を離れた後には、くじでアジア属州の総督に選ばれた。アレクサンデル・セウェルスの治世の末期にあたる234年には、二度目の執政官となり、同じ年にローマの都市長官にも任じられて、厳格さで知られたが、そのため民衆の人気は得られなかった。
238年、アフリカでゴルディアヌス1世とその息子が皇帝に立てられると、元老院は20人の委員会を設けて、マクシミヌス・トラクスに対する作戦を調整させ、老元老院議員のプピエヌスもその一人となった。ところがゴルディアヌス父子の敗死が伝わると、元老院は非公開の会議を開き、委員の中からプピエヌスとバルビヌスの二人を共同皇帝に選んだ。二人はともに最高神祇官にも選ばれた。ギボンは、この人選を、卑しい出身から武勇と能力で高位に昇り、都市長官としての厳格で公正な裁きでも民衆の敬意を集めたプピエヌスと、より愛嬌のあるバルビヌスの組み合わせとして評した。バルビヌスがローマに残り、プピエヌスは4月下旬ごろラヴェンナへ進んで、マクシミヌスとの戦いを指揮し、以前の任地で従軍していたゲルマンの補助兵を募った。マクシミヌスは、アクィレイアの近くで自軍の兵士に殺され、その軍勢はプピエヌスに投降したため、プピエヌスは兵を任地へ戻し、ゲルマンの護衛を連れてローマへ帰った。
その後、二人はゲルマニアとパルティアへの遠征を計画したが、口論が絶えず対立した。バルビヌスは首都で治安を保てず、プピエヌスがゲルマンの護衛を使って自分を退けるのではないかと疑ったという。近衛隊は元老院が選んだ皇帝に仕えることに不満で、二人は近衛隊によって殺され、遺体はティベリス川へ投げ込まれた。ゴルディアヌス3世が、単独の皇帝となった。
同じ年に亡くなった人物
- デキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌス (238年没)
- ゴルディアヌス2世 (238年没)
- マクシミヌス・トラクス (238年没)
- ユリウス・ポルクス (238年)
- ガイウス・ユリウス・ウェルス・マクシムス (238年没)
同じ地域に関係する人物
- シンプリキウス (ローマ教皇) (483年没)
- フランチェスコ・サヴェリオ・ニッティ (1953年没)
- ドミティア・ロンギナ (120年代没)
- エウメネス3世 (紀元前129年没)
- レオ2世 (ローマ教皇) (683年没)