伝記
カリストゥス1世は、ローマ教皇(在位217年頃〜222年頃)で、歴代の16代目とされる。その在位はローマ皇帝ヘリオガバルスとセウェルス(アレクサンデル・セウェルス)の時代に当たる。生年は不詳だが、155年頃にローマのトラステヴェレ地区で、ギリシア系の異教徒の家に奴隷として生まれたとする説がある。名のカリストゥスはギリシア語で「最も美しい」を意味する。成人してからキリスト教を受け入れたとされ、父は隠れたキリスト教徒で、ドミティウスあるいはカルポフォルスという名であったともいわれる。
若い頃の話は、対立者ヒッポリュトスの記述に頼るほかなく、その内容は偏っていると考えられている。それによれば、カリストゥスはカルポフォルスという人物の奴隷であり、主人の金を使い込み、他のキリスト教徒から預かった金もなくしてしまった。そのためローマから逃げ出したが、ポルトゥスで捕らえられた。債権者のとりなしで釈放されたが、シナゴーグでユダヤ教徒といさかいを起こして再び逮捕された。今度はサルデーニャの鉱山送りとなったが、皇帝コンモドゥスの愛人マルキアのとりなしで救い出されたという。また、彼はコンモドゥス帝の高官カルポフォルスの財産管理人を務めていた際に使い込みに関わり、その金は貧しい寡婦や孤児となったキリスト教徒を助けるために使ったらしいともいわれる。鉱山では約3年を過ごし、190年頃に釈放されたともいう。
体が弱っていたカリストゥスは、仲間のキリスト教徒に助けられ、教皇ウィクトル1世の知遇を得た。ウィクトルはアンティウムに彼を送って年金を与えたとされる。やがて次の教皇ゼフィリヌスに呼び戻されて秘書となり、助祭に任じられて、アッピア街道沿いのキリスト教徒の墓地の管理を任された。この墓地は、ローマの教会が持った最初の土地だった可能性がある。ゼフィリヌスの没後、カリストゥスはその後継者に選ばれ、217年、解放奴隷でありながら62歳で教皇となった。
在位中の事績は、ほとんどヒッポリュトスの著作『全異端反駁』に基づく。ヒッポリュトスは彼を異端的で野心的、堕落した人物と非難したが、そのヒッポリュトス自身が最初から選出に反対し、支持者に担がれて教皇を名乗った人物で、歴史上最初の対立教皇とされる。カリストゥスは、三度結婚した男性の叙階を認めたこと、自由人と奴隷の婚姻を有効としたこと、悔い改めて償いをした者の教会復帰を許す布告を出したことなどを非難された。この対立は、ヒッポリュトスの厳格主義と、カリストゥスの牧会的な姿勢の争いだったとされる。北アフリカでモンタノス派の教えを広めたテルトゥリアヌスとも争った。
222年頃、ローマで殺されたとされ、民衆の蜂起の中で命を落とした可能性が指摘される。井戸に投げ込まれて殉教したという伝えもあるが、史実の裏づけはない。殉教が222年頃であったことは確かだろう。アウレリア街道沿いのカレポディオのカタコンベに葬られ、後にトラステヴェレのサンタ・マリア教会へ移された。彼が管理した墓地は、後の教皇たちの墓所となって聖カリストゥスのカタコンベと呼ばれたが、本人はそこには葬られていない。彼は聖ペトロに次いで、最古のローマ殉教録に殉教者として載る最初の教皇である。1960年に見つかったアウレリア街道の墓には殉教への言及があり、棍棒で打たれて死に、遺体は井戸に投げ込まれたとされるが、この伝えを載せる『教皇列伝』は信頼性が低いとされる。カトリック教会の聖人で、記念日は10月14日であり、墓掘り人の守護聖人とされる。
同じ年に亡くなった人物
- 甘寧 (222年)
- 張遼 (222年没)
- 馬超 (222年没)
- ユリア・ソエミアス・バッシアナ (222年没)
- 馬良 (222年没)
同じ地域に関係する人物
- ピーノ・ダニエレ (2015年没)
- マリー・ルイーゼ・カシュニッツ (1974年没)
- アレクサンデル8世 (ローマ教皇) (1691年没)
- ジョヴァンニ・ジローラモ・カプスペルガー (1651年没)
- ナルキッソス (193年没)