HISTORICAL PERSON · 1957年没

ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ

イタリアの貴族、著述家。イタリア統一戦争を背景に、先祖の公爵をモデルにした歴史小説『山猫』で知られる。同作は後に映画化された。

生涯
1957年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(パレルモ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサは、1896年12月23日にシチリア島のパレルモで生まれ、1957年7月23日にローマで没したイタリアの貴族(公爵)、著述家である。イタリア統一運動(リソルジメント)を背景に、先祖のジューリオ・ファブリーツィオ公爵をモデルにした歴史小説『山猫』で知られる。この小説は没後の1958年に出版され、1963年にはルキノ・ヴィスコンティ監督により映画化された。

両シチリア王国で代々宰相を務めた家柄に生まれ、父ジュリオ・マリア・トマージはランペドゥーサ公、母ベアトリーチェ・マストロジョヴァンニ・タスカは名門の出であった。翌1897年に姉のステファニアがジフテリアで亡くなったため一人っ子として育ち、強い個性を持つ母と深く結びついて、作家としても大きな影響を受けたが、父の影響はさほど受けなかったとされる。パレルモの邸宅では、母からフランス語を教えられ、祖母からはエミリオ・サルガーリの小説を読み聞かせられた。休暇を過ごした母方の別荘には優れた蔵書があり、少年はまもなく夢中で本を読むようになった。別荘の小劇場には夏に二週間、旅芸人の一座が来て毎晩違う芝居を上演し、のちに、読み書きのできない労働者たちとともに初めて『ハムレット』を見た体験を懐かしく振り返っている。

1911年からローマ、のちにパレルモの高等学校に通い、1915年にはローマで法律を学び始めた。しかしこの年、第一次世界大戦のために軍に召集され、カポレットの戦いの退却の混乱のなかでオーストリア・ハンガリー軍の捕虜となった。収容所を脱走してイタリアへ戻り、中尉として軍務を続け、1920年に除隊した。その後は、シチリアで神経の疲れから数か月を過ごし、母と旅行をしたり、外国文学の研究をしたりした。ジェノヴァやトリノ、ボローニャ、ミュンヘンなどを転々としたともされる。独学で多くの言語に通じ、シェイクスピアの全作品を読んだとされ、ジョイスにも早くから取り組んだイタリア人の一人だったとみられる。1925年には、いとこで詩人のルーチョ・ピッコロとともに、ジェノヴァの文芸雑誌の仕事に半年間携わった。

1932年、ラトビアのリガで、ドイツ系貴族で精神分析の研究者であるアレクサンドラ・ヴォルフ・ストメルゼーと、正教会の式で結婚した。二人はパレルモで母と一緒に暮らしたが、母との不和により妻はラトビアに帰った。1934年に父が没し、その地位を継いだ。1940年に再び召集されたが、農地の経営のために帰された。戦時中は母とカーポ・ドルランドに疎開し、そこで妻と連絡を取って復縁した。1946年に母が亡くなると、妻とパレルモに戻り、1953年からは若者たちに英仏の文学を講義した。

1954年、ピッコロが招かれた文学会議に付き添ってサン・ペッレグリーノ・テルメを訪れ、詩人モンターレらと知り合った。その帰りに『山猫』を書き始めていると語り、2年後の1956年に完成させた。しかし出版社には断られた。1957年に肺癌と診断され、同年、ローマで亡くなった。パレルモのカプチン会の墓地に葬られた。原稿はのちに出版社にもたらされ、エイナウディ社のエリオ・ヴィットリーニがイタリア文学の最高傑作と評したとも伝えられ、1958年に出版された。熱狂的な支持を受けて1959年にストレーガ賞を受け、数年で各国語に訳されて、世界的なベストセラーとなった。

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