伝記
ヒエロクレスは、ローマ皇帝ヘリオガバルスに仕えた奴隷で、馬車の御者である。222年に没した。アナトリア半島のカリアの出身で、もとはローマ帝国に敗れた小国の戦士であったとされる。生涯についての記述は主に歴史家カッシウス・ディオと『ヒストリア・アウグスタ』に拠っており、古代の文献でこの人物を伝えるのはほぼディオ一人だともいわれる。
ディオによれば、ヒエロクレスはカリア出身の奴隷で、ゴルディウスという人物の愛人であった時期があり、その人物から戦車の御し方を学んだ。競技の最中に戦車から落ち、皇帝の座席のそばに倒れたところ、金髪でひげのない若い皇帝は彼に心を奪われたと伝えられる。ヒエロクレスは力が強く、顔立ちも整っていたという。皇帝は彼を恋人とし、夫とも考え、自分がヒエロクレスの妻、愛人、妃と呼ばれることを喜んだとされる。ただし、男性どうしの結婚は風刺の常套的な題材であり、ディオの記述は皇帝をあざけるための誇張だとする見方もある。
寵愛を受けたヒエロクレスは、奴隷だった母をローマに呼び寄せ、元執政官たちの妻の列に加えさせたという。さらに、皇帝が評判の高い競技者アウレリウス・ゾティクスを側近に取り立てると、地位を失うことを恐れて彼に薬を飲ませ、初めての夜に役目を果たせないようにした。ゾティクスは翌日に追放され、ローマからもイタリアからも去ることになったが、そのおかげで後の騒乱で命を落とさずに済んだとされる。
皇帝はヒエロクレスを自由の身にし、カエサルの称号を与えて帝位継承者と同格に扱おうとしたともいわれるが、祖母ユリア・マエサの反対もあり、実現しなかった。また皇帝は、ヒエロクレスに言葉でも暴力でも叱責されることを喜び、目のまわりに痣をつけたまま人前に出たと伝えられる。こうした寵愛と奇行が近衛兵の支持を失わせた主な原因だったともいわれる。
222年、皇帝は近衛兵の陣営に出向かざるをえなくなり、仲間たちを遠ざけると約束して兵士をなだめた。しかしヒエロクレスだけは例外にしてほしい、さもなくば自分を殺してほしいと、涙ながらに求めたと伝えられる。この態度が祖母の心を決定的に孫から離れさせたともされる。やがてヘリオガバルスが殺害されると、ヒエロクレスも母后ユリア・ソアエミアスら宮廷の寵臣たちとともに処刑された。
同じ年に亡くなった人物
- ヘリオガバルス (222年没)
- 張遼 (222年没)
- 黄蓋 (222年)
- バルダイサン (222年没)
- カリストゥス1世 (ローマ教皇) (222年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョン・モルガン (1913年没)
- インノケンティウス2世 (ローマ教皇) (1143年没)
- ミシャ・オウア (1967年没)
- クリストファー・クラヴィウス (1612年没)
- パウルス3世 (ローマ教皇) (1549年没)