伝記
インノケンティウス2世は、第164代のローマ教皇である。本名はグレゴリオ・パパレスキといい、在位は1130年2月14日から1143年9月24日に没するまでである。ローマの家系の出身で、貴族の家柄とされる。かつてはクリュニー修道会の修道士であったともいわれる。助祭枢機卿となってからは、教皇カリストゥス2世に重要で困難な使命を任された。神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世との和約であるヴォルムス協約の締結交渉に加わり、教皇特使も務めたとされる。敬虔で魅力的な人柄によって人気を集めたという。なお、枢機卿に任じられたのは、1116年に教皇パスカリス2世からともいわれ、1122年にカリストゥス2世からともいわれる。
1130年にホノリウス2世が没すると、枢機卿たちは二派に割れた。若い進歩派の北イタリア・フランス出身の枢機卿たちがパパレスキを選んでインノケンティウス2世としたのに対し、高齢で保守派のローマ出身の枢機卿たちは、ピエトロ・ピエルレオニを選んでアナクレトゥス2世とした。ホノリウス2世の没した翌日に叙階されたインノケンティウス2世側の選出は、手続きが正当でないと反対派に主張された。アナクレトゥス2世はシチリア王ルッジェーロ2世の支持を得てローマを押さえたため、インノケンティウス2世は船でピサへ、さらにジェノヴァを経てフランスへ逃れざるを得なかった。
フランスではクレルヴォーのベルナルドゥスの影響力もあって、聖職者や宮廷から好意的に迎えられ、フランス王ルイ6世や、1130年のヴュルツブルクの教会会議でドイツ王ロタール3世らの承認も得た。1131年1月にはシャルトルでイングランド王ヘンリー1世とも好意的な会見をしている。1133年には皇帝戴冠と引き換えにロタール3世の援軍を得てローマへ進んだが、聖ペトロ大聖堂はアナクレトゥス2世側に握られており、戴冠はラテラノ大聖堂で行われた。ロタール3世の帰国後、教皇は再びピサへ退いた。1135年にはピサ教会会議を開き、アナクレトゥス2世とその支持者を破門した。対立は1138年にアナクレトゥス2世が没するまで続き、後継に立てられたウィクトル4世は、ベルナルドゥスの説得を受けて約2か月で退位した。
1139年、教皇は第2ラテラン公会議を召集して教会の改革を図り、ルッジェーロ2世を破門した。この公会議の第29条は、キリスト教徒に対する弩や投石器、弓の使用を禁じたことでも知られる。その一方でシチリア軍との戦いに敗れ、捕虜となった。そのため同王のシチリア王位とイタリアの広い領土を認める和睦を結ばされ、釈放された。王の支持を得てローマへ戻り、ようやく正式な教皇となった。同年にはテンプル騎士団を教皇のみに従わせるとする教皇勅書も発している。
しかしローマでは党派争いが続き、不安定な状態は死去まで残った。教会改革はほとんど成果をあげられず、教理史上で特筆されるのは、ピエール・アベラールの学説を排斥したことくらいとされる。世俗君主との争いもあり、ルイ7世が教皇の任命した大司教の受け入れを拒み、ラウル1世の婚姻をめぐって対立したため、1142年に教皇はルイ7世を破門し、フランスに聖務停止を命じた。この措置は次の教皇ケレスティヌス2世が解除している。ローマではサンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂を大規模に再建した。
同じ年に亡くなった人物
- アグネス・フォン・ヴァイプリンゲン (1143年没)
- エルメジンデ・フォン・ルクセンブルク (1143年没)
- Konrad II of Wurttemberg (1143年)
- ユーグ2世 (ブルゴーニュ公) (1143年没)
- フルク5世 (1143年没)
同じ地域に関係する人物
- ステファヌス6世 (ローマ教皇) (897年没)
- Cornelius a Lapide (1637年没)
- マリオ・シェルバ (1991年没)
- マリオ・ナシンベーネ (2002年没)
- アガト (ローマ教皇) (681年没)