HISTORICAL PERSON · 515年没

宣武帝

北魏の第7代皇帝。17歳で即位し、南朝梁を攻めて蜀方面へ領土を拡大し柔然にも打撃を与えたが、次第に仏教信仰に溺れ、33歳で崩御した。

生涯
515年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 洛陽市)
出生地
中華人民共和国(大同市)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

宣武帝は、北朝北魏の第7代皇帝である。鮮卑系の拓跋氏の出で、拓跋恪として生まれ、のちに姓を改めて元恪となった。在位は499年から515年にわたる。この間、北魏は外見上は最盛期にあるかに見えたが、政界では内紛と腐敗が目立ち、とりわけ叔父の高肇の専横が際立った。

483年閏4月、孝文帝の次男として生まれた。母は貴人の高照容で、高句麗の人である。同じ年に生まれた兄の元恂の母は林貴人であり、元恪は元恂のすぐあとに生まれたと考えられる。幼少期のことはほとんど分からず、母の手で育てられたかどうかも不明である。聡明で気配りがあり、美男だったという。494年に孝文帝が都を平城から洛陽へ移したのち、496年に皇族の姓が拓跋から元に改められ、以後は元恪と呼ばれた。同じ496年の秋、皇太子の元恂は洛陽の暑さに耐えられず、側近とともに平城へ逃げ帰る計画を立てたが、発覚した。孝文帝は元恂を廃し、497年1月(2月23日とも記される)に元恪を皇太子に立てた。その年、平城にいた母の高氏は洛陽の息子のもとへ向かう途中で亡くなった。歴史家の多くは、元恪を自ら育てようとした孝文帝の皇后の馮潤が殺したと考えている。

499年、孝文帝は南斉への遠征中に病に倒れて死去した。孝文帝の弟の彭城王元勰は、撤退する軍の指揮を急ぎ任され、死を伏せたまま元恪を軍に呼び寄せた。元恪の側近の多くは元勰が帝位を狙っているのではと疑ったが、元勰は元恪と会うと深い敬意を示し、元恪はその忠誠を信じた。こうして元恪は数え17歳で、軍が洛陽へ戻る前に魯陽で即位した。当初は元勰を宰相にしようとしたが、元勰は固辞して地方長官となった。政務は、咸陽王元禧、任城王元澄、北海王元詳、広陽王元嘉、尚書令の王粛、吏部尚書の宋弁という6人の大臣の輔弼に委ねられた。元澄は王粛を謀反の疑いで誤って逮捕したため、まもなく職を失い、500年には元勰が呼び戻されて宰相となった。洛陽に戻ると、生母を皇后として追尊し、それまで会ったこともなかった母方の叔父の高肇と高顕、いとこの高猛を公に封じた。500年には南斉の将軍裴叔業が寿陽を北魏に降し、北魏はこれを併合した。

501年、于烈と元詳が、元禧が腐敗し元勰の人望が高まりすぎていると警告した。宣武帝は二人を職から外し、自ら政治を取ることとしたが、年少のため実際には政務を十分にさばけず、側近や外戚の高肇が権力を強め、腐敗していった。伝統的な史家は、これを北魏衰退の起点と見なしている。権力を奪われ殺されることを恐れた元禧は、黄河以南の諸州を率いて独立する反乱を企てたが、計画は発覚して処刑された。これ以降、宣武帝は皇族への疑いを深めていった。508年には、異母弟の京兆王元愉が冀州で反乱を起こしたが鎮圧された。高肇の進言により、叔父の彭城王元勰も誅殺された。

在世中は南朝梁をしばしば攻撃して蜀方面に領土を広げ、北方では柔然に大打撃を与えた。一方、熱心な仏教信者であり、自ら仏典を講じることもあった。北魏では仏教が事実上の国教となったが、宣武帝は次第に仏教信仰に溺れていったという。515年1月、33歳で崩御し、洛陽郊外に葬られた。後継は、胡氏(のちの霊太后)との間に生まれた元詡(孝明帝)である。陵墓の景陵は邙山陵墓群の一つで、全国重点文物保護単位に指定されている。1991年に盗掘に遭い、遺跡保護のため緊急発掘された。円形の墳丘は径112メートル、高さ約23〜24メートルで、中心の地下に方形の墓室があり、南へ墓道が伸びる。入口の先にあった高さ4メートルの石人像は、盗掘で首が失われている。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物