伝記
蘇秦は、中国戦国時代の弁論家で、字は季子である。張儀と並ぶ縦横家の代表人物とされ、諸国を遊説して合従を成立させたと伝えられる。生年は不詳とも、紀元前382年ごろともいわれる。没年も、『史記』にもとづく説では紀元前317年とされるが、紀元前284年とする説もある。
『史記』の蘇秦列伝によれば、洛邑の人で、斉に行き、張儀とともに鬼谷先生に学んで縦横の術を修めた。数年にわたり諸国を放浪したのち、困窮して故郷へ戻ると、親族にまで嘲笑された。そこで発奮し、相手を説得する術を作り上げたという。錐で自分の腿を刺して眠気を払いながら学んだとの話も伝わり、「懸梁刺股」という成語の由来の一つとされる。最初に周の慎靚王に近づこうとしたが、経歴を知る側近たちに信用されず失敗した。次に秦の武王に進言したが、商鞅が処刑された後で弁舌の士が敬遠されていた時期であり、受け入れられなかった。
その後、燕の昭王に説いて趙との同盟を成立させ、さらに韓・魏・斉・楚の王を説いて回った。こうして戦国七雄のうち秦を除く六国が同盟し、蘇秦は六国の宰相を兼ねた。韓王を説いたときの「鶏口となるも牛後となることなかれ」の言葉は、故事成語として知られる。趙に帰ると粛侯から武安君に封じられ、同盟の約定書を秦に送った。以後、秦は15年にわたって東へ攻め入らなかったという。秦以外の国々が南北に縦に並ぶことから、この方策は合従説と呼ばれた。趙の君主には、趙の領土は他の諸国からややずれた位置にあり不利に見えるが、同盟を結べば力の均衡の鍵を握れると説いたとされ、君主は感銘を受けて蘇秦に恩賞を与えた。また、六国の紋章をあしらった衣をまとったとも伝わる。故郷へ帰る行列は王者のようで、周王も道を掃き清めて郊外に出迎え、親戚は恐れて顔も上げなかった。蘇秦は、もし自分にわずかな土地でもあれば宰相の印を持てただろうか、と述べ、親族や友人に多額の金銭を分け与えた。この態度の変化は「前倨後恭」の成語になった。
合従した諸国は秦を攻めたが、旧来の敵どうしの不和のために簡単に敗れたともいわれ、秦が斉・魏・趙に懲罰の遠征を行うと、合従は崩れて蘇秦は趙を去った。『史記』によれば、合従が解けた後は燕に仕えたが、立場が微妙になって斉に移った。目的は斉の国力を弱めて燕の利益を図ることにあった。斉では湣王に取り立てられたが、対立者に暗殺された。死ぬ直前、蘇秦は王に、自分の遺体を車裂きにして「蘇秦は燕のために斉で謀反を企てた」と布告するよう頼んだ。そのとおりにすると、殺した者が名乗り出て、処刑されたという。
ただし、この記述には後世の研究で矛盾が指摘されている。当時の趙の君主はまだ王を称しておらず、秦の勢力も魏までにとどまっていたからである。1973年に長沙の馬王堆漢墓から出土した『戦国縦横家書』をもとに、蘇秦の事績は大きく修正された。それによれば蘇秦は張儀よりも後の人で、当時は斉が燕の領土を奪って秦と並ぶ二大強国となり、諸国はどちらと結ぶかを迫られていた。燕は斉への復讐をねらっており、蘇秦はその燕に登用されて斉への使者となり、斉でも外交官として合従に奔走しながら、実は燕のために斉と趙の離間を図っていた。紀元前288年には五国が秦を攻めて退却し、紀元前284年には燕・趙・魏・韓・楚が斉を攻撃して(済西の戦い)、燕は復讐を果たした。一方、『淮南子』は、蘇秦を弁舌が巧みなあまり国を滅ぼした例として批評している。