HISTORICAL PERSON · 192年没

蔡邕

後漢末期の政治家・儒者・書家。経典の文字を校訂した熹平石経の建立に携わり、董卓誅殺を嘆いたことで王允に投獄され獄死した。

生涯
192年没
死亡地
金(陝西省 / 長安)
出生地
中華人民共和国(杞県)
出典
世界地図
金(陝西省)

伝記

蔡邕は、中国後漢末期の政治家・儒者・書家である。字は伯喈。兗州陳留郡圉県の人で、132年または133年に生まれ、192年に没した。父は蔡棱、娘は文人として知られる蔡琰である。

若いころから博学で、太傅の胡広に師事し、辞章・算術・天文を好み、音律に通じた。母が病んでから3年間、寒暑にかかわらず自ら看病し、母の死後は墓のそばに庵を建てたという。その振る舞いが礼にかなっていたため、兎が部屋のそばに群れ、木が茂ったと伝えられる。叔父や従弟と3世代で財産を分けずに暮らしたことも、郷里での評価を高めた。桓帝の時代に琴の腕前を聞いた中常侍らが召し寄せようとしたが、旅の途中で病と称して引き返し、古文の研究に暮らした。170年に橋玄から司徒府へ招かれて深く敬われ、河平県長を経て郎中、議郎に進んだ。

当時は儒学の経典の文字に誤りが多いとされていた。175年、蔡邕は楊賜・馬日磾らとともに六経の文字を校訂するよう奏上し、霊帝の許可を得た。作業は蔡邕自らの書で、洛陽の太学の門外に46枚、総字数20万字に及ぶ石碑として立てられた。これが熹平石経で、現在も残石が保管されている。177年には、書画や辞賦に優れた者を高位に就けようとする霊帝に反対し、経学に通じた文武の才を用いるよう上表した。しかし省みられず、翌178年に鴻都門学が置かれた。同年、宦官の専横を厳しく諫める封事を奉ったが、これが曹節に漏れて宦官の恨みを買い、誣告によって叔父の蔡質とともに獄に下された。呂強が無実を憐れんで霊帝に訴えたため、死罪を減じられて朔方郡へ徒刑となった。五原郡に住んで北辺の警備に就くかたわら、東観で編纂中の史書の「志」が形になっていないことを憂え、草案を上章した。翌年、霊帝がその才を惜しんで大赦を与えたが、出発の宴で五原太守の王智と揉め、揚州へ亡命して12年を過ごした。

189年、霊帝の死に乗じて権力を握った董卓が、蔡邕の高名を聞いて招いた。一度は病と称して断ったが、董卓に激怒され、逆らえずに洛陽へ入って祭酒に任じられた。まもなく侍御史・持書御史・尚書と、わずか3日で昇進した。さらに侍中となり、190年には左中郎将として董卓の王匡討伐に従軍して功を挙げ、長安遷都にも従って高陽郷侯に封じられた。董卓は蔡邕の才学を重んじて厚遇したが、進言に従うことは少なかった。蔡邕は董卓の行く末をよくないと予感し、兗州へ逃れようとも考えたが、従弟に「あなたの容貌は常人と異なり、道を行くたびに人が集まる。どうして身を隠せようか」と諫められ、思いとどまったという。

192年、董卓が王允に殺されると、蔡邕は思いがけない事に嘆息して顔色を変えた。これを見た王允は、董卓は国の大賊であり、私的な恩を懐かしんで大節を忘れたのかと叱りつけ、ただちに廷尉に収監させた。蔡邕は謝罪し、顔への入れ墨と足切りの刑で死罪に代え、漢史の編纂を続けさせてほしいと願った。馬日磾をはじめ多くの士大夫が王允を諫めたが、王允は、若い主君のそばで佞臣に筆を執らせるべきではないとして聞き入れなかった。のちに王允は悔いて容疑を取り下げようとしたが間に合わず、蔡邕は獄中で没した。享年は数え年で61。多くの人が涙を流し、鄭玄はこの報を聞いて「漢の世の事を、誰と共に正せばよいのか」と嘆いた。陳留では、人々が画像を描いて蔡邕をたたえた。詩・賦・碑・銘・論議など文芸は広く、『独断』『勧学』『女訓』などの著作が知られ、およそ104篇が世に伝わったとされる。徒刑中に送った制度史の「十意」は、司馬彪『続漢書』に「八志」として採用された。

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