伝記
コンモドゥスは、ローマ帝国の第17代皇帝である。161年8月31日に生まれ、192年12月31日に没した。177年から180年の父マルクス・アウレリウスの死までは父と共同で、以後192年までは単独で皇帝を務めた。ルキウス・アウレリウス・コンモドゥスとして生まれ、死去したときの名はルキウス・アエリウス・アウレリウス・コンモドゥスであった。その治世は、パクス・ロマーナとして知られる黄金期の終わりを示すと一般に考えられている。
第16代皇帝マルクス・アウレリウスと、第15代皇帝アントニヌス・ピウスの娘小ファウスティナの子として、ラヌウィウムで生まれた。両親は従兄妹で、父方と母方の双方からハドリアヌスとトラヤヌスの血統を受け継ぎ、ネルウァ=アントニヌス朝の系図を結ぶ存在であった。双子の兄がおり、165年にその兄が早世すると、父は弟のコンモドゥスも早死にするのではないかと恐れ、専門の医師を付けた。この侍医が後に伝説的な医学者として記憶されるガレノスで、病弱なコンモドゥスは多くの病気にかかりながら、治療で辛うじて生き延びたという。166年、五歳で弟ウェルスとともに副帝に指名されたが、弟は169年に早世し、彼は父の男子で唯一の生き残りとなった。父は自ら教育を手がけて様々な学問を教え、これは彼に文官としての知識と能力を与えたが、反面、軍人としての能力は犠牲にされたという。
172年、十一歳で父の副官としてマルコマンニ人との戦争に加わり、カルヌントゥムの本陣に入った。同年の勝利の後、父は兵士たちの前で彼に「ゲルマニクス」の称号を与えた。175年、アウレリウスが亡くなったという噂が流れると、シリア総督のアウィディウス・カッシウスが帝位を宣言したが、噂が偽りと分かった後も、カッシウスは百人隊長の裏切りで暗殺されるまで反乱を続けた。この騒乱のさなか、ドナウ川の軍団駐屯地で誕生日を迎えたコンモドゥスは、少年の装いからトガに着替えて少年期に別れを告げた。
176年に父からインペラトルの称号を与えられ、翌177年にはアウグストゥスの称号も得て、共同皇帝となった。同年一月には十五歳でローマ史上最年少の執政官に就いた。178年、父が目をかけた名門貴族の娘ブルッティア・クリスピナと結婚し、ドナウ川の前線を父と視察している最中に父が病床に就き、180年に亡くなったため、十八歳で単独の皇帝として即位した。彼は初めから帝位継承者として育てられた最初のローマ皇帝であり、実の父の後を継いだのは、79年にティトゥスがウェスパシアヌスの後を継いで以来のことであった。
父の死後は、ドナウ川の軍団の総司令官として前線にとどまり、半年近い交渉の末に蛮族と講和して戦争を終えた。同年10月22日に凱旋式を挙行し、182年にはゲルマニクス・マクシムスの称号を加えられた。184年にはブリタンニアで国境部隊が相次いで敗れ、鎮圧後にはブリタンニクスの称号を与えられた。近衛隊長ペレンニスはその後に処刑されたが、その経緯は史料によって異なって伝わる。単独統治の間、軍事紛争は父の治世より減ったが、陰謀や謀議がはびこり、コンモドゥスは次第に独裁的となり、ついには宗教のような個人崇拝に至った。192年に暗殺されてネルウァ=アントニヌス朝は終わり、帝位は五皇帝の年の最初の皇帝ペルティナクスに引き継がれた。
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