伝記
ヨランド・ダラゴンは、百年戦争期のフランスで活躍した女性である。1384年8月11日に、アラゴン王フアン1世と、バル公ロベール1世の娘ヨランドの長女として生まれた。生年を1381年とする説もある。1400年にアンジュー公ルイ2世と結婚した。ルイ2世はナポリの対立王であったが、結婚の前年に、ラディズラーオ1世にナポリを奪い返されていた。夫妻には、ルイ3世、マリー、ルネ、ヨランド、シャルルらの子が生まれた。父フアン1世の唯一の男子ハイメが夭折し、アラゴン王位は父の弟マルティン1世が継いだ。マルティンも跡継ぎに先立たれ、1410年に後継者を定めないまま亡くなった。ヨランドは、マルティンの姪でありアラゴン王女であったため、長男ルイが王位継承候補に挙がったが、王位は得られなかった。
フランスでは内乱が続き、ブルゴーニュ派とアルマニャック派がパリの主導権を争っていた。1414年、ヨランドは王妃イザボー・ド・バヴィエールを訪ね、イザボーとシャルル6世の五男ポンティユー伯シャルル(のちのシャルル7世)と、自分の長女マリーを婚約させ、夫の所領アンジェへシャルルを連れて行って、息子たちとともに教育した。1417年にシャルルは、兄たちが相次いで亡くなったために王太子に選ばれた。1418年にブルゴーニュ派がイングランドと結んでパリを陥落させると、王太子はブールジュへ逃れ、ヨランドはこれを庇護して、王太子の宮廷に入った。同じ年、無怖公ジャンとの和睦を図ったが、王太子の反対で失敗した。1420年には次男ルネを、ロレーヌ公シャルル2世の長女イザベルと結婚させ、1422年にはマリーを王太子と結婚させた。ルネは、ヨランドの母方の叔父ルイから、バル公領も相続した。
イングランドに対抗するには、善良公とシャルル7世の和解と、ブルターニュとフランスの結託が欠かせないと考えていた。1424年にブルターニュ公ジャン5世と休戦を結び、ジャン5世の弟アルテュール・ド・リッシュモンを大元帥に任じるようシャルル7世に働きかけ、1425年にこれを実現させた。同じ年にブルターニュとの同盟も成立させたが、1426年にジャン5世がイングランドに寝返り、王の寵臣ピエール・ド・ジアックがリッシュモンの足を引っ張ったので、1427年に、ヨランドはリッシュモンと組んでジアックを暗殺した。しかし協力者のラ・トレモイユがジアックの後釜に座り、1428年にリッシュモンを排除した。
1429年、ジャンヌ・ダルクがシャルル7世の宮廷を訪れ、オルレアンの救援を願い出た。ヨランドは、ルネらを通じてジャンヌを知り、退廃した宮廷に一石を投じる機会として、旅支度や軍備を整えたのではないかとされている。しかし、ラ・トレモイユの妨害で戦線は止まり、1430年にヨランドは、ラ・トレモイユの命を受けたジル・ド・レに誘拐され、身代金を払って解放された。1431年にジャン5世と再び交渉して、フランス側へ引き戻し、1432年にはリッシュモンを宮廷に復帰させた。1433年に、ヨランドとリッシュモンは、他の貴族たちとラ・トレモイユを誘拐して宮廷から追放し、主導権を確立した。リッシュモンはブルゴーニュと同盟を結び、イングランドへの反撃を進めた。ヨランドはそれを見届け、1442年11月14日に58歳で亡くなった。
また、孫娘のマルグリット・ダンジューを幼いころに養育したことがあり、マルグリットはヨランドの死後の1445年、イングランド王ヘンリー6世と結婚して、のちに王妃として政治手腕を発揮した。
同じ年に亡くなった人物
- ピエール・コーション (1442年没)
- エリーザベト・フォン・バイエルン (1383-1442) (1442年没)
- ジョアン・デ・ポルトゥガル (1400-1442) (1442年没)
- アル=マクリーズィー (1442年没)
- ジョン・カストリオティ (1442年没)
同じ地域に関係する人物
- ロベール豪胆公 (866年没)
- Nicaise Auguste Desvaux (1856年没)
- トマス・オブ・ランカスター (1421年没)
- マーガレット・オブ・アンジュー (1482年没)
- エルマンガルド・ド・エスベイ (818年没)