伝記
ラムセス11世は、古代エジプト第20王朝の第10代、最後のファラオである。在位は紀元前1098年ごろから1070年ごろ、あるいは1106年から1078〜1068年の間のいつかまでとされ、年代には幅がある。即位名はメンマアトラー・セテプエンプタハで、「ラーの正義を留め、プタハに選ばれた者」を意味する。彼の治世をもって新王国時代は終わりを迎えた。
先代のラムセス10世との関係は分かっていない。かつては王妃ティティの子とされたが、大ハリスパピルスの研究により、ティティはラムセス3世の妃だったことが明らかになり、母ではないとされる。妻はネブセニの娘テントアメンと考えられており、のちにテーベの大司祭パネジェム1世の妻となるドゥアトハトホル=ヘヌトタウイをもうけたと推定される。タニスの有力者で次の王朝を開くスメンデスの妻となるテントアメンも娘だったかもしれないが、これらの関係は確かではない。即位日は夏の第3月20日とされてきたが、2023年に公表されたパピルス断片をもとに、実際には氾濫の季節の第3月と第4月の間だったとする見方も出ている。
治世中、上エジプトの支配権はテーベを拠点とするアメンの神官団が握り、事実上の支配者として振る舞っていた。王都ペル・ラムセスから統治する王の権威が及ぶのは下エジプトに限られた。神官団の権力も安定せず、政争が続いた。治世の半ば頃、おそらく12年目頃に、ヌビア総督パネヘシが大神官アメンヘテプを失脚させ、一時テーベを押さえた。この出来事の時期は、かつては治世の早い時期とされたが、現在は治世19年に始まる「ウヘム・メスウト(繰り返される誕生)」の時代の少し前とする見方が主流である。この年号は、パネヘシのクーデタ後に平常に戻ったことを強調するためだったと考えられる。
治世19年頃には、軍司令官ヘリホルがパネヘシに取って代わった。ヘリホルはアメンの大神官となり、宰相をはじめ多くの要職を兼ね、ヌビア総督の肩書も得たが、実際のヌビアはその後も10年近くパネヘシの勢力下にあった。ヘリホルは独自の年号を採用し、神殿に自分の名をカルトゥーシュで囲んで刻むなど、王のように振る舞った。テーベは事実上の独立国家(アメン大司祭国家)となり、エジプトには南北二つの王家が並び立つことになった。治世28年頃には、ヘリホルの後継者ピアンキがヌビアへ遠征した。この年は、ウヘム・メスウトの10年にもあたる。パネヘシ討伐のためとも、別の敵に直面したパネヘシへの援軍だったともいわれ、両者の関係はよく分かっていない。ピアンキはその後、治世29年の初めにあたる時期にテーベへ戻ったことが落書きから知られる。
ラムセス11世の在位は少なくとも29年、約28年から30年とも、30年をわずかに超えたともいわれ、研究者のなかには33年に及んだ可能性を唱える人もいる。同王朝では2番目に長い。この時代には重要なパピルスが数多く残る。治世1年と18年に触れる養子縁組のパピルス、ウヘム・メスウトの最初の2年間に行われた墓荒らしの裁判を記録した文書、アメンヘテプ失脚の混乱のなかで神殿の文書庫から盗まれた文書を、ウヘム・メスウトの6年に買い戻した一覧を記すパピルス、治世12年の課税に関するトリノのパピルスなどである。王の死で第20王朝の系譜は途絶え、タニス周辺を治める有力者で王の娘婿のネスバネブジェトが後を継いで第21王朝を創始した。
同じ年に亡くなった人物
- メネリク1世 (紀元前 1000年(推定))
- メンケペルラー (紀元前1000年代没)
- スメンデス1世 (紀元前1000年代没)
- ナブー・ムキン・アプリ (紀元前1000)
- ラムセス10世 (紀元前1000年代没)
同じ地域に関係する人物
- セトナクト (紀元前1150)
- ムザッファル・クトゥズ (1260年没)