伝記
ラムセス10世は、古代エジプト第20王朝の第9代ファラオである。在位は紀元前1110年ごろから1106年ごろ、あるいは1108年ごろから1098年ごろとされ、年代は定まっていない。即位名はケペルマアトラーで、「ラーの正義は留まる」を意味する。即位前の誕生名はアメンヘルケプシェフといった。
先代のラムセス9世との関係は分かっていない。ラムセス9世までの王たちは、残された史料からラムセス3世の息子や孫であることが判明しているが、ラムセス10世については血縁を示す史料が見つかっておらず、系図上の位置が特定されていない。ラムセス9世、10世、次代の11世が親子であれば、「王の娘」「王の妻」「王の母」の称号を持つ王妃ティティがラムセス10世の妻だった可能性も考えられていた。しかし、大ハリスパピルスなどの史料から、ティティはむしろラムセス3世の妻だった可能性が高いとされ、この推測は退けられている。
治世についても、分かっていることはわずかである。即位の日付は先代の治世の冬の季節の第1月27日にあたり、治世2年はトリノのパピルスに記されている。確認できる最も新しい日付は治世3年で、氾濫の季節の第2月2日、または第4月(日の記載なし)とされる。治世3年は、王家の谷で王墓の造営に従事した労働者たちの日誌にも出てくる。それによると、砂漠に住むリビア人の襲撃がたびたびあり、職人たちは冬の第3月の6日、9日、11日、12日、18日、21日、24日に、砂漠に住む者たちへの恐れから仕事を休んだ。この欠勤はストライキを兼ねたものでもあったとされる。この記録は、同じころ砂漠からナイル・デルタ西部へ流れ込む人々が増えていたことを反映している。リビア人らは上エジプトやテーベを自由に歩き回っていたらしい。一方で、ヌビアのアニバに碑文が残されていることから、ヌビアはなおエジプトの支配下にあり、何らかの事業が続いていたことが分かる。この碑文は、新王国時代の王がヌビアに残した最後の事跡とされる。
治世の長さは確定していない。4年ほどだったとする説を支持する研究者が多く、2023年に公表されたデイル・エル=メディナ出身のパピルス断片は、ラムセス10世がおよそ3年10か月、ほぼ4年で没した可能性を示唆する。他方、テーベで見つかった治世8年の日付を彼に結びつけて9年ほどの治世とする説もあった。9年説は天文学上の計算にもとづいて唱えられたが、今では放棄されている。治世1年の記録は残っておらず、4年目については、記録があるかもしれないという程度である。ラムセス10世は、第20王朝後半の王のなかで治世3年が確認できる唯一の王だとされ、このことが前述のパピルス断片との結びつきの根拠になっている。
王墓KV18は王家の谷にあるが、未完成のまま残された。ミイラも副葬品の断片も見つかっておらず、実際に葬られたのかどうかも不明で、テーベのほかの場所か、デルタのペル・ラムセスに葬られた可能性も考えられている。次の王ラムセス11世の即位は、通説では夏の第3月20日とされてきた。だが、この日付の根拠とされる養子縁組のパピルスは、王がカルナックを訪れてアメン神に即位を報告した日を記しているにすぎず、即位の儀式はそれ以前にデルタの王宮かメンフィスで行われていたはずだという指摘がある。その場合、ラムセス10世の没年月日も従来の理解とは変わってくる。
同じ年に亡くなった人物
- ナブー・ムキン・アプリ (紀元前1000)
- スメンデス1世 (紀元前1000年代没)
- プスセンネス1世 (紀元前1000年代没)
- Maitreyi (紀元前1000)
- メンケペルラー (紀元前1000年代没)
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