伝記
メンケペルラーは、古代エジプト第21王朝の時代にテーベでアメン神に仕えた大司祭である。在職は紀元前1045年から992年頃とされ、軍の最高指揮官も兼ねたといわれる。父は大司祭パネジェム1世、母はドゥアトハトホル=ヘヌトタウイで、異母兄にタニスの王プスセンネス1世、同母兄に前任の大司祭マサハルタとジェドコンスエフアンクフがいる。
スメンデス1世の治世の末ごろ、メンケペルラーは兄たちのあとを継いで大司祭となった。父パネジェム1世はこのころ、テーベで共同の王として振る舞っていたという。就任したのは不穏な時期で、スメンデス1世の治世にテーベではアメン神官団に対する騒乱が起き、やがて秩序が回復されて反乱者たちはハルガ・オアシスへ追放された。メンケペルラーが将軍かつ大司祭となったのは、その数か月後のことである。その後、名前の記されない王の治世の初め、おそらくアメンエムニスゥのころに、メンケペルラーは追放者たちを赦してテーベへ呼び戻した。騒乱を受けて、ゲベレインやヒガーゼなどの要塞が築かれたり改修されたりし、メンケペルラー自身はアメン神殿の周壁を修復した。ヌビアの事務は、クシュの王子の称号も持つ第三預言者アアケペルラーが担っていた。カルナック神殿の中庭には、メンケペルラーと、当時第二預言者で後継者だった息子スメンデスの名を刻んだ石板が置かれ、神の船を担ぐ祭礼の際に銀の床が敷かれた場所を示すのではないかとされる。のちには、娘婿で第四預言者のジェネフェルが、テーベの神殿の大規模な点検を行った。神殿の中庭に刻まれた布告は、混乱の中で損害を受けた領地の人々に賠償を行うことを述べているらしく、この地方の治安が長く不安定だったことをうかがわせる。
神官勢力が絶頂にあったこの時代、大司祭は王に等しい世俗の権力を得ており、メンケペルラーも南部エジプトの事実上の支配者として、名をカルトゥーシュで囲んで記した。ただし、父パネジェム1世が「ラーの魂の出現、アメンに選ばれし者」という明確な現人神の称号を用いたのに対し、メンケペルラーは曾祖父ヘリホルと同じ「アメンの第一の預言者」の称号を使った。自ら王のような神性を帯びず、神意の代行者の立場にとどまったことを示すとされる。
メンケペルラーはプスセンネス1世の娘イセトエムケブを妻に迎えた。姪にあたる人である。王の弟である大司祭がタニス王家に従う姿勢を見せた結果、第20王朝末期から続いた権力の二重構造はある程度解消されたらしく、後継者のスメンデス2世以降の大司祭は、王号やカルトゥーシュを用いなくなった。スメンデス2世の弟パネジェム2世は兄の死後に大司祭を継ぎ、姉のイセトエムケブと結婚してプスセンネス2世の父となった。ほかにも、アメンとセトの司祭ホリ、コプトスのミン、ホルス、イシスの司祭プスセンネス、アメンの巫女メリトアメン、メンチュ神の巫女ガウトセシェンなどの子がいる。ガウトセシェンは第三預言者ジェネフェルの妻で、のちに第三、第四預言者となるパネジェムとメンケペルラーの母になった。ホリやメリトアメンらの棺とミイラは、デイル・エル=バハリの隠し場所から見つかり、現在はカイロにある。メンケペルラーは死後、デイル・エル=バハリの墓に葬られ、墓はMMA60と呼ばれ、娘のヘヌトタウイや、同名の姉妹ヘヌトタウイも共に葬られている。名のメンケペルラーは「ラーの顕現はとどまる」を意味し、「アメンの第一の預言者」の称号とともにカルトゥーシュに記された。
同じ年に亡くなった人物
- バラタ (紀元前1000)
- Maitreyi (紀元前1000)
- マール・ビティ・アプラ・ウスル (紀元前1000)
- スメンデス1世 (紀元前1000年代没)
- ナブー・ムキン・アプリ (紀元前1000)
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