伝記
ムザッファル・クトゥズは、エジプトを支配したマムルーク朝のスルターン(在位1259年〜1260年)である。前半生には不明な点が多く、出自についてはさまざまな伝承がある。モンゴル軍に捕らえられて奴隷とされ、商人に連れられてシリアに行き、アイユーブ朝のマムルークであるアイバクに買い取られたという。アイバク配下のマムルークのなかで最も有力な者として頭角を現し、アイバクがスルターンに即位したあとの1253年には、副王に相当する地位に就いた。1257年にアイバクが妻のシャジャル・アッドゥッルに暗殺されると、彼女を逮捕し、アイバクの遺児マンスール・アリーを新たなスルターンに擁立した。同じ1257年の11月と翌年4月には、ダマスカスのナーセル・ユースフがバフリー・マムルークの力を借りて攻め入ったが、いずれも退けた。
1258年2月にモンゴル軍がバグダードを陥落させ、カリフのムスタアスィムを処刑すると、ナーセルは子をフレグのもとに送って貢物を納めたが、フレグはナーセル自身が出頭しなかったことを咎め、軍をシリアに進めた。クトゥズは、若いマンスール・アリーに代えて難局に当たれる人物を擁立すべきだと主張し、1259年11月にマンスール・アリーを廃して自らスルターンとなった。諸将は不満を抱いたため、モンゴル軍を撃退したあとは他の人物に地位を譲ると約束し、戦の準備を始めた。バイバルスらバフリー・マムルークがエジプトに戻ると、これを迎え入れた。1260年1月にアレッポが陥落し、2月にダマスカスも落ちると、モンゴル軍はエジプトに降伏を求める使者を送ってきた。クトゥズは部将たちと協議し、バイバルスらの主戦論を採って徹底抗戦を宣言した。フレグの使者4人を斬首してその首をカイロに掲げた。
先制するため、マムルーク軍はエジプトを発った。サラーヒーヤで一部の将軍がモンゴル兵を恐れて留まりたがると、クトゥズは演説で前進を恐れる者を厳しく責め、将軍たちに従軍を誓わせた。バイバルス率いる先発隊はガザでモンゴル軍の先遣部隊に勝ち、アッコンの十字軍国家からは中立の保障のほか、領内の通行と物資の補給も認められた。クトゥズとバイバルスは、モンゴル軍をアイン・ジャールートの平原へ誘い込む作戦を立てた。9月3日の戦いで、モンゴル軍に向かい合った左翼は恐れて後退したが、クトゥズは味方を励まして突撃を繰り返した。乱戦のなかで兜を脱ぎ捨て、自らも剣を取って戦った。大半の将校を失ったモンゴル軍は潰走した。勝敗が決まると、クトゥズは馬から降りてラカアの祈りを二度捧げ、神に感謝した。
ダマスカスに入ったクトゥズは、キリスト教徒30数人とモンゴル軍に協力したイスラーム教徒を処刑し、市内のキリスト教徒に500万ディルハムの税を課した。アッバース家の王族がダマスカスに着いたと聞くと、カリフをバグダードに再興する準備として、彼らをカイロへ護送させた。戦いの前にはバイバルスにアレッポ総督の座を約束していたが、戦後にこれを破ってモースルのアラウッディーンにアレッポを与えた。バイバルスをエジプトから離れたアレッポで力を伸ばさせることへの不安からともいわれ、バイバルスとその配下の強い恨みを買った。1260年10月、カイロへ帰る途中のサラーヒーヤで狩りをしていたとき、バイバルスが捕虜のモンゴル人の美女を所望し、許されると、手への接吻を願い出た。差し出した手を固くつかまれたクトゥズは、剣を抜いたバイバルスと従者に刺し殺された。10月24日のこととされる。遺体は初めクサイルに葬られ、のちにカイロの墓へ移された。
同じ年に亡くなった人物
- マリー・ド・ブラバン (1190-1260) (1260年没)
- シギ・クトク (1260年)
- カダアン・オグル (1260年)
- ヨルダヌス・ネモラリウス (1260年)
- シンチ・ロカ (1260年)