伝記
ナブー・ムキン・アプリは、バビロン第8王朝、いわゆる「E王朝」の創始者で、36年間王位にあったとされるバビロニアの王である。名は「ナブー神は正統な後継者を確立する者」という意味をもつ。在位は紀元前974年から939年とも、紀元前978年から943年とも、およそ紀元前979年から943年ともいわれ、年代は一定しない。同時代のアッシリア王はティグラト・ピレセル2世で、同期王名表がこの両王を同時代人として記録している。
その治世はバビロニアの「暗黒時代」の真ん中にあたり、当時の史料は乏しい。折衷年代記には名が見えるものの、歴史的な情報は残っていない。治世についていちばん詳しいのは宗教年代記である。それによると、マルドゥク神とナブー神の新年祭(アキトゥ祭)は何度も中断され、9年続けて行えない時期さえあった。理由は「アラム人が敵対的であった」ことだという。ナブー神の神殿は隣の都市ボルシッパにあり、祭りには神像をバビロンへ運ぶ行事が含まれていたらしい。アラム人の侵入は激しく、バビロンは農業を営む後背地から数年にわたって切り離されたため、新年祭を営めなかったとされる。カルドゥ(カルデア人)がバビロニアに移住し、南東の端に定住したのは、彼の治世の直後のことだという。
治世の同時代史料はわずかしか残っていない。シッパル出身の境界石(クドゥルル)には、治世25年に行われた、シャ・マミトゥ市の地区にある地所をめぐる争いの和解が記されている。この地所はもとは州知事アラド・シビッティと、困窮したカッシート系の一族ビート・アビ・ラッタシュのものだったが、婚姻を通じて、弓職人ブルシャの一族の手に渡っていた。話をさらに複雑にしたのは、アラド・シビッティが、ニヌルタ・クドゥリ・ウツル1世の時代(紀元前983年から981年)に、誤ってブルシャの奴隷を矢で殺していたことだった。ブルシャは、アラド・シビッティの債権者たちが課したさまざまな担保から地所の権利を確保するため、887シェケルを支払わなければならなかった。この和解の証人として、王の三人の息子の名が挙がっている。
ほかに、ディヤラ地方のミンガトゥ・カリトゥ運河沿いのティグリス川東岸から見つかった境界石があり、治世16年の日付をもち、二つの土地の売買を記している。もう一つ境界石の断片があるが、損傷が激しく、治世についての有用な情報は得られない。ジュネーヴの美術歴史博物館には、この治世の日付をもつ未刊行の経済文書が1点ある。
王の末の息子リームト・イリーは、神殿の監督官(シャタム・エクッラーティ)を務めた。王の死後は、ほかの息子たちが王位を継いだ。最初はニヌルタ・クドゥリ・ウツル2世で、在位は8か月だった。そのあとにマル・ビーティ・アヒェ・イディンナが即位したが、その在位の長さは、まだ定まっていない。