伝記
スメンデス1世は、古代エジプト第21王朝の初代ファラオである。在位は紀元前1070年から1043年頃とされる。スメンデスはヨセフスやアフリカヌスらが用いたギリシャ語表記の名で、本来のエジプト語名はネスバネブジェドといい、「メンデスの主の牡羊」を意味する。即位名はヘジュケペルラー・セテプエンラーで、「明るきはラーの出現、ラーに選ばれしもの」の意である。
生い立ちははっきりしない。アメン神に仕える巫女の長ヘルラーを母に持つ可能性が指摘されており、その場合はヘルラーの娘ネジュメトの兄弟にあたり、ネジュメトの夫である大司祭ピアンキとは義理の兄弟になる。第20王朝最後の王ラムセス11世の治世には、タニスを拠点とする有力な知事であったと考えられている。妻テントアメンはラムセス11世(あるいはラムセス9世)の娘とみられ、これによって王位の継承権を得て新しい王朝を開いたとされる。
この時代の姿を伝えるのが、神官ウェンアメンの航海の報告である。カルナックのアメン神官ウェンアメンは、大司祭ヘリホルの命を受け、アメン神像を運ぶ新しい船を造る木材(おそらくレバノン杉)を買い付けるため、フェニキアの都市ビブロスへ派遣された。北へ向かう許可を求めて立ち寄ったタニスで、ネスバネブジェドは重要な人物として登場する。ウェンアメンは旅の途中で無一文となり、ビブロスの領主は木材の引き渡しを拒み、ネスバネブジェドが代金を立て替えるまでウェンアメンを拘束したとされる。一方で、ウェンアメンのために船を差し向けたとする記述もある。物語に記された「第5年」がいつの王の治世にあたるかは定まっておらず、ラムセス11世の治世とする見方のほか、スメンデスの治世5年とする説もある。
メンフィスで戴冠したのち、スメンデスは拠点をタニスに置き、中王国や新王国時代の建築物を転用して都にふさわしい姿に作り変えたとされる。ペル・ラムセスからタニスへの遷都は次のプスセンネス1世の功績とされるが、その動きはスメンデスの時代から始まっていた可能性があるともいわれる。王の支配が実際に及んだのはデルタを中心とする下エジプトに限られ、上エジプトはパネジェム1世、マサハルタ、メンケペルラーといったアメンの大司祭が事実上独立して治めていた。それでも王の権威は名目上エジプト全土で認められていたらしく、ゲベレインの対岸にあるエド・ディバビヤの石切り場の碑文のほか、カルナックのモンチュ神殿の囲壁の落書きにもその名が見える。ナイル川の氾濫で傷んだルクソール神殿の修復が、メンフィスにいた王の命で行われたことも石切り場の碑文から知られる。
大司祭メンケペルラーがテーベの反乱を鎮め、首謀者を西方のオアシスへ追放したことを記す碑文には治世25年の日付があり、これもスメンデスの治世を数えたものと見られる。マネトーは在位を26年としており、これと合致する。死後は息子と思われるアメンエムニスゥが王位を継いだ。追放された者たちは、数年後にこの後継者の治世で赦されたという。墓は見つかっていないが、アラバスター製のカノポス壺が1つ、スメンデスのものとして知られ、ニューヨークのメトロポリタン美術館に収められている。また、その即位名は後の第22王朝や第23王朝の王たちに好まれ、シェションク1世、シェションク4世、タケロト1世、タケロト2世、ハルスィエセの5人が採用した。
同じ年に亡くなった人物
- バラタ (紀元前1000)
- メネリク1世 (紀元前 1000年(推定))
- ナブー・ムキン・アプリ (紀元前1000)
- ラムセス10世 (紀元前1000年代没)
- メンケペルラー (紀元前1000年代没)
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