伝記
プスセンネス1世は、古代エジプト第21王朝の第3代ファラオである。プスセンネスは後代のギリシャ語表記で、本来の名はパセバカエンニウトといい、「都に現れし星」を意味する。即位名はアアケペルラー・セテプエンアメンで、「偉大なるはラーの形にして、アメンに選ばれし者」の意である。在位は紀元前1040年前後から990年代にかけてとされ、タニスから国を治めた。
テーベのアメンの大司祭パネジェム1世と、ラムセス11世の娘ドゥアトハトホル=ヘヌトタウイの息子で、姉妹のムトネジュメトを妻とした。テーベの大司祭メンケペルラーとは兄弟にあたる。治世の長さはマネトーの記録の写しによって41年とも46年ともされ、どちらが正しいかは分かっていない。上エジプトで見つかった匿名の王の治世48年・49年の日付をプスセンネス1世のものとし、在位を51年ほどに延ばす提案がある。一方、ドイツの学者ヤンセン=ヴィンケルンは、これらの日付を大司祭メンケペルラーのものと結論づけた。タニス王家の初期の王は上エジプトの文書にほとんど名が現れず、代わりにテーベの大司祭たちが王に準じた称号を用いていたからである。ただ、メンケペルラーが王名を使わず、兄にあたる王と協力していたことから、49年の日付はやはりプスセンネス1世に属するとの見方もある。現在は、古代エジプト年代学の便覧の編者らによる46年間という推定が用いられている。高齢の王は、記録のない50年目まで在位した可能性さえあるともされる。
プスセンネス1世の墓からは、テーベの大司祭スメンデス2世から贈られた副葬品が見つかっており、治世中のテーベとの関係は概ね友好的だったと考えられる。タニスに建てられたアメン、ムト、コンスの三神の大神殿は、その成果といわれる。また、ペル・ラムセスの都をタニスへ移した事業でも知られる。
1940年、フランスのエジプト学者ピエール・モンテがタニスで王家の墓を発見し、プスセンネス1世のミイラと副葬品が手つかずで残っているのを確認した。埋葬当時の状態を留めた王墓としては、ツタンカーメン王墓に次ぐ2例目の発見である。ツタンカーメンの墓は過去に盗掘の跡があるため、一度も封印を解かれなかった王墓としてはこれが唯一とされる。湿地帯という立地のため木製品の多くは朽ち、ミイラも著しく傷んでいたが、金の板を打ち出した黄金のマスクは無傷だった。眉やアイラインにはラピスラズリ、目にはガラスが使われている。出来はツタンカーメンのマスクに及ばないものの「タニスの至宝の一つ」とされ、現在はカイロ博物館に収められている。ミイラの指と爪先には爪をかたどった金の指サックがかぶせられ、足には金のサンダルが履かされ、各指には貴石をはめた金の指輪があった。
ミイラを納めた花崗岩の石棺は、もとは第19王朝のメルエンプタハの埋葬に使われたものの転用で、内側の人形棺も同じ時代のものだった。王は銀の人形棺に納められており、銀は金より希少だったため、国力が低下するなかで精一杯の豪華な葬儀が営まれたことがうかがえる。遺骨の鑑定からは、死亡時に80歳近い高齢だったとみられ、歯はひどくすり減り、口蓋の穴の内部には腫瘍が密集し、関節炎も広範囲に及んでいた。この墓には後継者のアメンエムオペトや将軍ウェンジェバウエンジェドも葬られたほか、元の墓が水に浸かったため、シェションク2世と身元不明の王族2人(シアムンとプスセンネス2世の可能性がある)も改葬された。
同じ年に亡くなった人物
- Maitreyi (紀元前1000)
- ラムセス10世 (紀元前1000年代没)
- ラムセス11世 (紀元前1000年代没)
- メンケペルラー (紀元前1000年代没)
- ナブー・ムキン・アプリ (紀元前1000)
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