伝記
ナースィル・ムハンマドは、1285年3月24日にカイロの城塞で生まれたバフリー・マムルーク朝のスルタンである。父は第8代スルタンのカラーウーン、兄は第9代スルタンのアシュラフ・ハリールで、母はモンゴルの有力者シャクタイの娘とされる。誕生の知らせは、父がレヴァント沿岸のマルカブを包囲している最中に届いたという。ムハンマドはモンゴル風の装いと振る舞いで育ったという。
1293年12月に兄ハリールが家臣に暗殺されると、ムハンマドはまだ8歳か9歳で後を継いだ。しかし後ろ盾はなく、摂政で副スルタンのキトブガーと宰相のサンジャル・シュジャーイーが実権を握り、スルタンは名ばかりの存在だった。やがて二人の対立はシュジャーイーの殺害で決着し、1294年にはキトブガーがムハンマドを廃して自ら即位した。10歳になったムハンマドは母とともに宮殿の別の区画に移され、その後カラクへ送られた。ここで最初の治世が終わった。
1296年にキトブガーは副スルタンのラージーンに倒されてシリアへ逃れ、1297年にハマの総督のまま没した。そのラージーンも1299年にキルジーらのアミールに殺されると、アミールたちはカラクからムハンマドを呼び戻すことを決めた。キルジーらの異論で帰還はしばらく遅れたが、ムハンマドは母とともにカイロに入り、住民の歓迎を受けて復位した。14歳であった。副スルタンにはサラール、侍従長にはバイバルス・ジャシュナキールが就き、この二人が再び実権を握った。ムハンマドは自らのマムルークを登用して権力を固めようとしたが、父や兄の時代から仕える古参のマムルークが反発し、後見役だったバイバルスを担ぎ出す動きを見せた。脅威を感じたムハンマドはメッカ巡礼を口実にカラクへ逃れ、スルタン位を明け渡した。これは実質的な廃位であった。
バイバルスもまた失政を重ね、これを見たムハンマドは反対派を集めて蜂起した。1310年1月にダマスカスへ入城し、翌2月にカイロを奪還すると、バイバルスら反対派を徹底的に粛清して三度目の即位を果たした。二度の廃位と三度の復位を経験したムハンマドは、権力の強化を慎重かつ柔軟に進めた。複雑な税制やイクター制を整え、エジプト総督と財務庁長官の職を廃してその権限を自らに集め、内政改革を成功させた。庶民に課されていた税や付加税を廃止し、汚職と戦うためイブン・ワズィーリーを裁判所の長に任じたともいわれる。名臣とされるアブー・アル=フィダを登用し、彼を中心にイルハン朝の軍勢に勝った。外交ではジョチ・ウルスと、宿敵のイルハン朝とも和睦し、その文化を取り入れた。バフリー・マムルーク朝はこの時代に全盛期を迎えた。ムハンマドは29歳ごろまでモンゴル風に振る舞っていたが、1315年に病を得て気分が変わったのを機に、自らも従者たちも髪を剃り、長く垂らした髪を捨てたと伝えられる。
晩年のムハンマドは奢侈に走って財政を傾かせ、周囲の支持を得るために恩赦を与えすぎたため、マムルークの力が強まった。1341年6月7日、57歳で死去すると、有力マムルークたちは後を継いだ子のマンスール・アブー=バクルを暗殺して権力闘争を始め、ムハンマドの息子たちは彼らの傀儡として利用されることになった。その後ブルジー・マムルーク朝に交替するまでの42年間に、8人の息子、2人の孫、2人の曾孫が、復位を含めてのべ13名、相次いでスルタンに擁立された。
同じ年に亡くなった人物
- アンドロニコス3世パレオロゴス (1341年没)
- エレオノーラ・ダンジョ (1341年没)
- マンスール・アブー=バクル (1341年没)
- Dietrich von Altenburg (1341年)
- ジャン3世 (ブルターニュ公) (1341年没)
同じ地域に関係する人物
- アーディド (1171年没)
- シール・クーフ (1169年没)
- カラーウーン (1290年没)
- アシュラフ・イーナール (1460年没)
- 聖タイス (400年没)