伝記
カラーウーンは、エジプトのマムルーク朝の第8代スルターンで、1279年から1290年まで在位した。1220年ごろの生まれとされる。現在のウクライナからカザフスタンにかけての草原で活動した遊牧民キプチャクの出身で、幼いころ奴隷としてエジプトで売られ、マムルークの将校に買い取られた。破格の1,000ディナールで買われたことから、「アル=アルフィー」とあだ名された。アイユーブ朝のスルターン・サーリフのバフリーヤ軍団に編入され、サーリフの死後は同僚のバイバルスらとともに、スルターンのトゥーラーン・シャーを暗殺する計画に加わった。
マムルーク朝の成立後、同僚のアクターイが殺されると、カラーウーンはバイバルスとシリアのアイユーブ家の分家へ逃れた。バイバルスが即位すると忠実に仕えたが、治世の末期には冷遇された。1275年、バイバルスは息子バラカの後継を望み、バラカとカラーウーンの娘の婚約を取り決めた。だがバラカの即位後、旧臣が国政から遠ざけられたため、1279年7月にカラーウーンら将軍はバラカを廃位した。カラーウーンは自ら推されたものの、軍内に勢力を持つバイバルス配下の軍団に備えてバイバルスの別の子サラーミシュを擁立し、摂政として政務と軍事を握った。同年11月27日、バフリーヤ軍団に選ばれてスルターンとなった。即位後は、バイバルス配下の軍団に代えてチェルケス系のマムルークを用い、その数は治世の末に3,700人に達した。
即位の直後、ダマスカスの知事ソンコルが反乱を起こし、イルハン朝のアバカ・ハンに援助を求めた。アバカは1280年10月にシリアへ侵入してアレッポを破壊した。カラーウーンは1281年5月にソンコルと講和し、その党派も加えた軍で迎撃に向かい、10月31日にハマーとホムスの間でモンゴル軍と戦って勝ったが、多くの将校と輜重を失った。追撃のさなか、ソンコルがモンゴルと内通を約した書簡が届くと、カラーウーンは書簡を水に浸して字を消し、誰の目にも触れさせなかった。アバカの死後にハンとなったアフマド・テグデルはイスラームに改宗しており、同盟を申し出た。カラーウーンは戸惑いながらも受け入れた。1284年にアフマドが廃位されて非イスラム教徒のアルグンが立つと、在位中にマムルーク軍がイルハン朝の領内に入ったのは1度だけだった。
ホムスの戦いのあと、カラーウーンは十字軍国家との戦いに専念した。1282年にエルサレム王国や三つの騎士団と協議して沿岸地帯の分割と休戦の延長を決めた。1285年にはティルスの女領主と休戦を結ぶ一方、休戦の対象外だった聖ヨハネ騎士団領のマルカブを占領し、1287年4月末には港市ラタキアを攻撃した。1288年5月には、インドやイエメン、中国などに宛てて、エジプトの商業の安全を保障する詔書を出した。1289年3月17日にはイスラム商人が害されたことを名分にトリポリを包囲し、4月26日に攻略した。住民は連れ去られたり殺されたりし、町は破壊された。
1290年夏、教皇の呼びかけでイタリアから義勇軍がアッコンに上陸し、現地のキリスト教徒まで殺害した。激怒したカラーウーンは攻撃を宣言したが、11月10日、準備のさなかに没した。病死とも窒息による殺害ともいわれる。後継に指名していた長子サーリフは直前に急死しており、カラーウーンは粗暴な次子ハリールが毒殺したと疑って指名を拒んでいたが、最終的にハリールが即位した。この治世にカイロには病院、マドラサ、墓廟からなる大きな施設群が建てられ、中心の病院は身分を問わず外来患者も治療した。
同じ年に亡くなった人物
- ルドルフ2世 (オーストリア公) (1290年没)
- マグヌス3世 (スウェーデン王) (1290年没)
- リョケ・ユパンキ (1290年)
- ラースロー4世 (ハンガリー王) (1290年没)
- Gregory II of Constantinople (1290年)
同じ地域に関係する人物
- Theognostus of Alexandria (282年没)
- ハッサン・ファトヒー (1989年没)
- ルネ・ゲノン (1951年没)
- マスウーディー (956年没)
- Mustafa Lutfi al-Manfaluti (1924年没)