HISTORICAL PERSON · 1169年没

シール・クーフ

ザンギー朝の武将でサラディンの叔父。ヌールッディーンの命で3度のエジプト遠征を指揮し、ファーティマ朝への影響力拡大に貢献した。

生涯
1169年没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(カイロ県 / カイロ)
出生地
アルメニア王国(アララト)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(カイロ県)

伝記

シール・クーフは、エジプトとシリアで活躍したクルド人の武将で、セルジューク朝とザンギー朝に仕えた。アイユーブ朝の創始者サラディンの叔父にあたり、サラディンの父アイユーブの弟である。尊称のアサドゥッディーンは「信仰の獅子」、個人名のシール・クーフはクルド語で「山の獅子」を意味する。生年は不明で、クルドのラワーディー族の出身といわれ、アルメニアのドヴィーンの名家と伝わるが、これは後世の言い伝えで真偽は分からない。父シャージーは、情勢の不安定になった故郷を離れ、旧知のバグダードの軍事長官ビフルーズを頼って、シール・クーフとアイユーブを連れてきた。ビフルーズはシャージーをティクリートの代官に任じ、父の死後は兄のアイユーブがその職を継いだ。

1137年か翌年、シール・クーフは口論の最中にキリスト教徒の役人を殺してしまい、ビフルーズの指示で、一家はティクリートを去った。一家は、かつて助けた縁のあるザンギーを頼ってモスルへ行った。ザンギーは暖かく迎え、領地を与えて、兄弟を軍団長に任じた。シール・クーフはザンギーの子ヌールッディーン、アイユーブは別の子サイフッディーンに仕えた。1146年にザンギーが暗殺されると、ダマスクスの支配者ウヌルがバールベクを攻めた。アイユーブはウヌルに降ったが、シール・クーフは兄と分かれ、引き続きヌールッディーンに仕え、ザンギーの2人の子の会合を実現させて、2つの政権の境界を定めさせた。ヌールッディーンはその勇猛さを見抜き、ホムスなどの領地を与えて、常備軍の司令官にもした。1149年のイナブの戦いでの活躍で信頼を得たシール・クーフは、1154年には、ダマスクスで力をつけていた兄と諮り、ヌールッディーンのダマスクス併合を成功させた。1152年に甥のサラディンがシール・クーフのもとへ来ており、1157年にヌールッディーンが大病にかかると、死後はダマスクスの統治を任せるという約束も得た。

1164年から1169年にかけて、ヌールッディーンはファーティマ朝の内紛に介入して、3度のエジプト遠征を行い、三度とも総指揮はシール・クーフがとった。1164年、宰相の職を追われたシャーワルの求めで出兵し、カイロで政敵ディルガームを殺してシャーワルを宰相に戻したが、シャーワルはシリア軍の退去を求め、十字軍と連合して攻めたため、双方が撤退した。このときシール・クーフは、ビルバイスから退くのに戦斧をかついで自らしんがりを務めたといい、裏切りを案じる十字軍兵士には、むしろそれを望むと答えたという。1167年の第2回では、敵の裏をかいて上エジプトまで南下し、ナイルを渡ってバーバインの戦いに勝ち、アレクサンドリアに入った。サラディンに町の守りを任せたが、3か月の籠城ののち、また双方が撤退した。1168年、十字軍がシリア軍に先んじて侵攻し、シャーワルはフスタートに火を放った。シリア軍が着くと、十字軍は引き上げた。

1169年1月2日、シール・クーフはカイロに入り、住民に歓迎され、ファーティマ朝のカリフから宰相に任じられた。シャーワルは捕らえられて処刑され、シール・クーフはエジプトを掌握した。シャーワルが宴でシール・クーフらを殺す計画を立てたとき、息子のカーミルは反対したといい、シール・クーフは後に、カーミルが生きていてくれたなら、とよく漏らしたという。しかし、宰相になって2か月ほどの3月22日か23日、急死した。死因は扁桃腺炎だったという。後任は甥のサラディンが選ばれ、アイユーブ朝の確立への道が開かれた。

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