伝記
アーディドは、ファーティマ朝の第14代にして最後のカリフである。本名はアブー・ムハンマド・アブドゥッラー・ブン・ユースフといい、尊称はアル・アーディド・リッ・ディーニッラーフ(「神の信仰を強固にする者」の意)である。ヒジュラ暦546年(西暦1151年5月9日)に生まれたとするのが一般的に受け入れられている説だが、1145年や1149年の生まれとする記録もある。父ユースフは、第11代カリフのハーフィズの息子である。ハーフィズは遺詔で、年長のユースフではなく16歳の末子イスマーイールを後継者としたが、ユースフは、のちに幼いファーイズが即位した1154年に、カリフ暗殺の嫌疑をかけられて宰相アッバースに処刑された。アーディドは、ファーイズが11歳で死んだ翌日の1160年7月23日、全権を握る宰相タラーイー・ブン・ルッズィークによって、9歳でカリフに即位した。タラーイーはカリフへの統制を強めるため、自分の娘のひとりをアーディドと結婚させた。アーディドは名目上の統治者にすぎず、利権を争う廷臣や有力者の傀儡として過ごした。
独裁をふるい、十二イマーム派に傾倒して宮廷の憎悪を買っていたタラーイーは、1161年9月11日に暗殺された。この暗殺は、アーディドの叔母のひとりシット・アル・クスールが扇動したといわれ、若いカリフもおそらく知っていた。それでもすぐにタラーイーの息子ルッズィークが宰相となり、カリフに権力を与えなかった。ルッズィークはシット・アル・クスールを絞め殺させ、アーディドを別の叔母の保護下に置いた。アーディドの宮廷の一派は、ルッズィークを倒すため、上エジプトの総督シャーワルに助けを求め、シャーワルは1162年12月末にカイロを占領してルッズィークを処刑させた。しかしシャーワルもカリフを公務から排除し、政府を握った。1163年8月に部下のディルガームによってカイロから追放されたシャーワルは、ダマスクスのヌールッディーンに助けを求めた。同じ1163年9月には、エルサレム王アモーリー1世がエジプトに侵攻したが、ナイル川の堤防が破壊されて平野が水浸しになったため、撤退した。シャーワルは、ヌールッディーンの将軍シールクーフに率いられた小さな遠征軍とともにエジプトに送り返された。シャーワルは、1164年5月26日に宰相に復帰したが、のちにシールクーフと対立し、1169年1月にシールクーフの陣内で殺された。新たに宰相になったシールクーフも、2か月後に死に、甥のサラーフッディーン(サラディン)が後を継いだ。
サラーフッディーンは、はじめアーディドに融和的だったが、しだいにファーティマ朝の解体を試みた。これに反発した黒人軍団が反乱を起こしたが、敗れて追放され、権力基盤を固めたサラーフッディーンは、ほとんどの地方の総督に一族の者を任じた。アーディドは儀礼的な役割からも遠ざけられた。サラーフッディーンは、宗教儀礼をイスマーイール派の様式からスンナ派の様式に変え、1171年9月10日にアッバース朝の宗主権を公に宣言して、ファーティマ朝を廃した。アーディドはその数日後の9月13日に死去した。政権を失ったイスマーイール派の共同体は、サラーフッディーンが築いたアイユーブ朝から迫害を受け、ファーティマ朝の消滅からおよそ1世紀後にエジプトから姿を消した。アーディド自身についての情報は少ないが、顔はベールに包まれていたものの、十字軍時代の歴史家ギヨーム・ド・ティールは、彼を非常に寛大な気質の若者で、背が高く、浅黒い肌の色で、良い体格をしていたと記している。
同じ年に亡くなった人物
- ヘンリー・オブ・ブロワ (1171年)
- グレプ (キエフ大公) (1171年没)
- イェスゲイ (1171年)
- ボードゥアン4世 (エノー伯) (1171年没)
- コナン4世 (ブルターニュ公) (1171年没)
同じ地域に関係する人物
- アル=アズィーズ・ウスマーン (1198年没)
- イブン・ユーヌス (1009年没)
- Fathi Arafat (2004年没)
- ウンム・クルスーム (1975年没)
- アブドルハキーム・アーメル (1967年没)