HISTORICAL PERSON · 1341年没

マンスール・アブー=バクル

マムルーク朝第16代スルターン。父の遺志で若くして即位したが、同年のうちに執政カウスーンに廃位・殺害された。

生涯
1341年没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(ケナ県 / クス)
出生地
エジプト・アラブ共和国(カイロ)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(ケナ県)

伝記

マンスール・アブー=バクルは、1321年ごろに生まれ、1341年に没したバフリー・マムルーク朝のスルタンである。父はスルタンのナースィル・ムハンマドで、母は側室のナルギスという。同じ母から弟のラマダーンとユースフが生まれた。幼いころの様子はマムルーク朝の史料に伝わらず、最初に名が見えるのは1332年である。この年、アブー=バクルは砂漠の要塞カラクに送られ、異母兄弟のアフマドやイブラーヒームとともに軍事の訓練を受けた。同じ年にはカラクを出て、父や異母兄弟のアーヌーク、アフマドに従ってアカバへ赴き、メッカ巡礼に向かったが、巡礼の道を進む前に父の命でカラクへ戻されている。

1335年、アブー=バクルはカイロに呼び戻され、父によってアミールに任じられた。このときはアミールのカウスーンが先頭に立つ行列が組まれ、アブー=バクルはアミールの装束をまとった。そのころ父は、母ナルギスの夫となっていたアミールのトゥクズダムルの娘との結婚も取り決めた。1337年から1338年にかけて、アブー=バクルは40騎のマムルークを率いるアミールに昇進した。1339年にはカラクの総督としてアフマドに代わって送られた。アフマドは後継者の候補から外されており、後継の本命は父の子のアーヌークだったが、アフマドが不適格とされたことで、アブー=バクルが次点の存在になっていた。この年、カラクの住民から強引に集めたらしい銀貨20万ディルハムを携えて父のもとを訪ねている。

1340年7月17日までカラクにとどまった。そのころ父はアーヌークを後継者の座から外していた(1340年にアーヌークが没したためともいわれる)。父はアブー=バクルをカイロに招き、アミールたちに忠誠を誓わせた。いったんカラクへ向かったが、1341年1月24日に再びカイロへ呼ばれた。このとき銀貨10万ディルハムを父に持参し、カラクにいた自分のマムルークや兵も呼び寄せられた。アブー=バクルは病の父が亡くなるのを待つ形でカイロにとどまり、その間に大きなイクターを与えられ、アレッポなどから多くの兵が移された。1341年6月4日、臨終の床にあった父は、アミールたちに自分の死後はスルタン位がアブー=バクルに移ることを認めさせ、祖父カラーウーンの称号である「マンスール」を授けて祖父の剣を与えた。6月7日に父が死去すると、スルタン位は平穏に引き継がれた。

しかし実権を握ったのは、父の婿のカウスーンやバシュタクら、父の有力なアミールたちだった。アブー=バクルは、祖父カラーウーンの時代の主従関係を取り戻そうとしたともいわれるが、アミールたちは名目だけのスルタンでいることを求め、親政の試みは阻まれた。翌7月、若年のスルタンを補佐するという名目で、ナースィルの治世に廃止されていたエジプト総督と財務を司る宰相の職が再び設けられた。アブー=バクルは在位中に二人の奴隷の娘とも結婚し、それぞれの花嫁のヴェールに金貨10万ディナールを費やしたとされる。

最大の対抗者バシュタクを抑えたカウスーンは、アブー=バクルに牢に入れられることを恐れて動いたという。8月5日、アブー=バクルは軽薄という作られた罪名で逮捕され、6人の兄弟とともに上エジプトのクースの牢に送られた。在位は59日にとどまった。11月、クースの総督がカウスーンの命でアブー=バクルを処刑した。カウスーンは、アブー=バクルの母の夫であるトゥクズダムルを失脚させ、まだ5歳のクジュクをスルタンに擁立した。

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