伝記
忠烈王は、1236年4月3日、江都で高麗王元宗と順敬太后金氏の長男として生まれた。のちに第25代の高麗王となる。1256年に王族の始安公王絪の娘を妃に迎え、1258年には高麗で崔氏政権が倒れてモンゴルに服属した。1260年に世子となり、1269年にはモンゴルに入朝した。1271年に再び燕京を訪れ、モンゴルのクビライの皇女クトゥルク=ケルミシュとの婚姻の許しを得て、翌1272年に帰国したが、12月には再び元に入朝した。1273年4月には、耽羅島に拠った三別抄の乱が元との連合軍に鎮圧された。1274年5月、燕京でクトゥルク=ケルミシュと結婚した。6月に元宗が亡くなると、8月に帰国して王位についた。以後80年以上にわたって、高麗の王は元の皇室の娘を妃に迎え続けた。
在位の初めから、日本遠征が重くのしかかった。1274年10月には文永の役が起き、元は高麗に戦艦の建造を命じた。高麗は兵力と経費を出し、人々の暮らしは戦争の物資の徴発で疲れ果てた。1275年には高麗が元の駙馬国となったため、官制が格下げされ、同年9月に公主との間に王子の王謜(のちの忠宣王)が生まれた。翌1276年には王室の儀礼や名称も格下げされた。同年には、公主が前の妃に濡れ衣を着せる事件が起き、1277年には公主が国王を殴る事件も起きた。王謜は1277年に世子とされた。1278年には、弁髪と胡服を命じる令を出した。この年、公主とともに元に入朝してクビライに謁見し、高麗に起きた一連の事件は事実無根だと釈明した。そして、高麗に駐在する洪茶丘やダルガチを本国に送還するよう願い、「駙馬高麗王」の金印を与えられた。この結果、元の兵や役人は高麗に置かれなくなったという。元の支配下でも忠烈王は自立を保とうとし、東寧府や耽羅など戦争中に失った地を交渉で取り戻したという。そのほか在位中には、不正な財産を取り上げる監察機関を再建し、儒学を盛んにする政策も進めた。孔子廟が建てられ、儒者の安珦の提案で学問の基金も設けられた。
1280年8月、再び入朝して日本遠征の諸将の会議に加わり、クビライに七つの希望条項を上奏して、受け入れられた。10月には「開府儀同三司・中書左丞相・行中書省事」の官位を授かった。1281年3月、元の将軍忻都と洪茶丘が遠征軍を率いて合浦に着き、忠烈王は協議に当たった。5月3日、金方慶らを含む東路軍が合浦から出征したが、弘安の役は敗れ、8月には敗報が届いた。1282年1月、元は征東行省を解散した。
1287年にナヤンの叛乱が起きると、これに備える征東行尚書省が置かれ、忠烈王はその平章政事に任じられた。1290年にはカダアンの侵入を受けた。元に武装を解かれていた地元の軍は防げず、11月に都を江華に移した。この間、忠烈王は豪華な宴に耽り、侵入に無関心だったと伝えられる。1291年に元と高麗の連合軍がカダアン一派を鎮圧し、5月に忠烈王は開京に帰還した。1297年5月に公主が亡くなると、翌1298年、忠烈王は忠宣王に譲位した。しかし趙妃に関する誣告の事件が起き、6か月ほどで復位した。そののちも元に従う政策を貫き、1308年7月30日に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- Guy II de la Roche (1308年)
- 陳仁宗 (1308年没)
- マルゲリータ・ディ・ボルゴーニャ (1308年没)
- アブー・サービト・アミール (1308年没)
- オットー4世 (ブランデンブルク辺境伯) (1308年)