伝記
マルゲリータ・ディ・ボルゴーニャは、フランス語名をマルグリット・ド・ブルゴーニュといい、シチリア王カルロ1世(シャルル・ダンジュー)の2度目の妃となった女性である。1249年か1250年ごろに生まれた。父はブルゴーニュ公ユーグ4世の長男でヌヴェール伯などを務めたウード、母はトヌール女伯マオー・ド・ダンピエールで、ヨランドとアリックスという二人の姉妹がいた。幼いころはブルゴーニュ公の宮廷で過ごし、思春期にはフォントヴロー修道院に入った。父は1266年に十字軍で没し、娘たちが相続人として残された。
1268年、18歳のマルゲリータは、前年に先妻ベアトリスと死別していたシャルル・ダンジューと結婚した。結婚式は南イタリアのプーリア地方のトラーニで行われた。彼女はナポリに居を定め、そこで自分の宮廷を構えた。二人の間には娘マルゲリータが生まれたが夭逝したと伝えられる。一方で、子はなかったようだとする説もある。姉妹の間では父の遺産をめぐる争いが続いていた。パリ高等法院の調査を経て、1273年の判決でヌヴェール伯領はヨランドに、トヌール伯領はマルゲリータに、オーセール伯領はアリックスに分けられた。マルゲリータがトヌールを実際に手にしたのは、1273年の万聖節であった。東方に目を向けた夫の野心は、1282年のシチリアの晩祷につながった。
1285年に夫が没すると、彼女はフランスへ戻り、夫の心臓をパリのサン・ジャック修道院に納めた。帰国後はリニー=ル=シャトレに住み、1287年にはトヌールへ移って、トリポリ伯の寡婦マルグリット・ド・ボーモンや、コンスタンティノープルの名目上の皇妃カトリーヌ・ド・クルトネーと暮らした。彼女たちは城で祈りと慈善に励んだ。
トヌール女伯としてのマルゲリータは、モンミライユ男爵夫人でもあり、ル・マンなどの領主でもあった。1277年から1288年にかけて各地の土地を買い足し、1291年にはレジンヌの住民を解放した。1293年にはトヌールにノートルダム・ド・フォントニーユ施療院を設け、運営に足りる収入も与えた。この施療院はのちにトヌールの市立病院となる。贖罪のために建てたといわれることもあるが、証拠はない。
晩年は現世の務めを少しずつ手放し、トヌールの住まいにとどまった。1292年の協定の文書で、彼女は所領を甥たちに分けた。姉ヨランドの子ルイとロベールにはペルシュとベリーの土地を、妹アリックスの子ギヨームにはトヌール伯領の権利を与えた。ギヨームは1304年にフランドル戦争で没した。マルゲリータは1308年9月4日、モーヌの館で亡くなった。子がなかったため、トヌールは大甥に遺された。遺体はフォントニーユ施療院に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- 忠烈王 (1308年没)
- Clare of Montefalco (1308年)
- 陳仁宗 (1308年没)
- ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス (1308年没)
- ヘルマン (ブランデンブルク辺境伯) (1308年没)
同じ地域に関係する人物
- アルフレッド・エスピナス (1922年没)
- ラウール (西フランク王) (936年没)
- ジャック・アミヨ (1593年没)
- ジャンヌ=マリー・ルプランス・ド・ボーモン (1780年没)
- Jacques Mairesse (1940年没)