HISTORICAL PERSON · 1105年没

粛宗 (高麗王)

高麗第15代王。幼い甥に代わり王位を奪ったが強力な王権で国を安定させ、弟の進言により海東通宝など高麗初の鋳造貨幣を発行した。

生涯
1105年没
死亡地
—
出生地
李氏朝鮮(江原道 / 朝鮮)
出典
世界地図
李氏朝鮮(江原道)

伝記

粛宗は、1054年9月2日に生まれた高麗の第15代国王である。姓は王、名は初め凞、後に顒と改め、字を天常といった。父は文宗、母は仁睿太后李氏で、両親の三男にあたる。母は李子淵の長女であった。父方の祖父は顕宗、祖母は安山金氏の元恵王后である。王位についた順宗と宣宗はいずれも兄であった。王妃には明懿王后柳氏を迎え、王后との間には7人の息子と4人の娘がいた。王子たちは上党侯、帯方公、大原公などの称号を持ち、三男は出家して円明国師と呼ばれた。別の女性との息子にも、僧となった者がいた。

1095年、まだ幼い甥の献宗に代わって王位についた。献宗の譲位による即位であったが、通常の継承の順序をそのまま受け継いだものではなかった。粛宗は強い王権によって国内の安定を図り、統治の仕組みにいくつもの変更を加えた。1101年には、現在のソウルにあたる南京を新たに整えるため、南京開創都監を置いた。南の拠点の建設は、王の権力をさらに広げようとする事業でもあった。同年には文学への関心を示し、王室の書庫を調べ、集められた著作に特別な印を押したとされる。仏教の著作は寺院にも収められ、初期の大蔵経は国内44の寺院で保管されていた。

貨幣政策では、宋へ渡った経験を持つ弟の僧義天の進言を受け入れ、鋳銭都監を設けた。1102年には海東通宝、三韓通宝、海東重宝を鋳造し、銅貨の流通を進めた。海東通宝は、海東の地で通用する宝という意味の名を持つ。しかし新たな貨幣は広く定着するには至らなかった。支払いには銀を用いる慣行があり、賄賂にも銀が使われていたためである。

対外的には、北方で勢力を伸ばす女真との衝突が課題となった。国境で接するようになった両者の間では戦いが繰り返され、1104年には女真の侵攻を受けた。高麗軍はこれを十分に退けることができず、敗戦を重ねた。粛宗は将軍尹瓘に新しい軍隊の編成を命じた。こうして設けられた別武班は三つの部門からなり、貴族を中心とする騎兵の神騎軍、農民からなる歩兵の神歩軍、仏教の僧を組織した降魔軍で構成された。同じ1104年には南京の王宮も建設され、南の都の整備が進められた。

1105年11月10日、粛宗は西京への行幸に関わる旅の途中で死去した。西京の東明聖王の墓を参拝し、開京へ戻る車中で没したともいわれる。東明聖王は高句麗の初代王である。墓は開京の英陵とされ、文恵康正明孝大王の諡号を受けた。王位は長男の王俁が継ぎ、睿宗となった。生前に編成を命じた別武班が女真に対して戦果を挙げるのは、粛宗の死から2年後の1107年であった。

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