HISTORICAL PERSON · 1308年没

アブー・サービト・アミール

1307年に即位したマリーン朝のスルタン。対立候補4人のうち3人を片づけ、ティレムセン包囲を解いて帰国し、ウスマーンに備えてテトゥアンを築いた。1308年に病没し、在位は約1年だった。

生涯
1308年没
死亡地
モロッコ王国(タンジェ=テトゥアン地方 / タンジェ)
出生地
—
出典
世界地図
モロッコ王国(タンジェ=テトゥアン地方)

伝記

アブー・タービト・アーミルは、北アフリカのマリーン朝(現在のモロッコ)の君主で、1284年に生まれた。アブー・ヤアクーブ・ユースフの子とも孫ともいわれる。在位は1307年から1308年までの、およそ1年にすぎない。

そのころマリーン朝は、1299年から西アルジェリアのトレムセンを包囲し続けていた。アブー・ヤアクーブ・ユースフはこの包囲のさなかに暗殺されたといい、その日は1307年5月10日とされる。包囲が続いていた1306年には、ナスル朝の後援を受けた王位請求者ウスマーンがセウタに上陸し、モロッコ北部の大部分を押さえていた。こうした中で位を継いだアーミルは、四人の王位請求者から地位を争われた。包囲を続けるか、領土を取り戻すかを迫られた彼は、後者を選んだ。

アーミルの動きは素早かった。まず三人の請求者を片づけ、次にトレムセンを治めるアブドゥルワード朝の君主アブー・ザイヤーン1世と取引をして、包囲を秩序立てて解く道を開いた。そのうえで軍をモロッコへ急ぎ戻し、四人目のウスマーンに当たった。守備隊はほとんど残さなかったため、アブドゥルワード朝は、トレムセンの包囲陣地が育ってできた町アル・マハッラ・アル・マンスーラを破壊し、海岸沿いにウジダへ進んで、マリーン朝がここ数年かけて得た成果を押し戻した。

国内でも混乱が広がった。マラケシュの総督が新しい君主に背いて独立を宣言したとされ、ウスマーンの討伐に送られた将軍はこれを抑えられなかった。1308年6月には、反乱側が別のマリーン軍を破り、前年に失っていたケサル・エル・ケビールを取り戻した。そこでアーミルは自ら出陣した。アシラーなどグラナダに奪われていた町と、ウスマーンの手にあったタンジェを、戦いに勝って取り返し、さらにグラナダの君主にセウタの返還を求める使者を送って、その町を囲む準備を整えた。ウスマーンとの作戦を指揮するため、セウタの少し南に新しい町テトゥアンを築いた。

1308年7月28日、アーミルは病で急に亡くなった。死んだ場所はテトゥアンともタンジェともされる。弟のアブー・ル=ラビー・スライマーンが後を継いだ。スライマーンは1309年にウスマーンを破り、彼を北アフリカから退かせた。

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