伝記
陳仁宗は、陳朝大越の第3代皇帝である。1258年12月7日、第2代皇帝聖宗の長男として生まれた。母は安生王陳柳の娘で、元聖皇后となる陳氏韶である。生まれた子の容姿があまりに整っていたため、祖父の太宗と父の聖宗は「金仙童子」と名づけたという。1274年12月に皇太子に立てられた。聖宗は息子の教育に心を砕き、同じ年に名臣で将軍の黎輔陳を皇太子の師に任じ、二人の学者を補佐につけた。聖宗自身も、皇太子を教えるために詩や『遺後録』という書を著したとされる。
1278年11月8日、仁宗は父帝から譲位されて即位した。年号は紹宝とした。ただし聖宗は上皇となったあとも、1279年から1290年に没するまで仁宗とともに国を治めた。1279年、元は南宋を破って中国の支配を固め、南方の大越やチャンパーへと目を向けた。聖宗と仁宗は、元に対して柔軟な政策を保ちつつ、戦いに備えた。1282年、元の服属要求を退けたため、大軍の侵攻を受けることになった。同年10月、聖宗と仁宗は皇族と重臣を平灘に集めて、避けられない戦いを協議した。両帝は従伯父の名将陳国峻に軍権を預け、陳国峻は1283年に全軍の総司令に任じられた。1284年12月、クビライの子トガンが率いる元の第2次侵攻が始まった。陸からはトガンが、海からは将軍ソゲトゥがチャンパーを通って攻め込んだ。皇族や高官の中にも元に降る者が出て、聖宗の弟の陳益稷もその一人であった。聖宗と仁宗は退却を余儀なくされ、両帝の退却を守るために戦った陳平仲が、捕らえられ、のちに殺された。仁宗は、元軍の圧倒的な物量の前に危機に陥り、怖気づいて元への降伏も考えた。しかし陳国峻の強硬な反対を受けて考えを改め、徹底して抗戦することにした。
局面が変わったのは、1285年4月のハムトゥの戦いで、陳日晧らの軍がソゲトゥの水軍を破ったときである。5月10日にはチュオンズオンの戦いで陳光啓が戦い、ソゲトゥの水軍がほぼ壊滅した。ソゲトゥは討たれた。6月6日、仁宗と聖宗は都のタンロンに戻った。1287年3月には元の第3次侵攻が始まった。ゲリラ戦に悩まされた元軍は、1288年に撤退を始め、大越軍はこれを追撃して壊滅させた。これが白藤江の戦いである。1289年、仁宗はこの功績により陳国峻に興道大王の号を与え、その後も重く用いた。
1293年2月22日、仁宗は長男の陳英宗に譲位して太上皇となった。ほどなく出家して仏門に入り、余生を送った。仏教の竹林派をひらいたとされる。出家したのちも、陳国峻とともに息子の治世を助けていたといわれる。仏法に関する著書には『僧袈砕事』など多数がある。1308年、臥雲庵で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ギヤースッディーン・マスウード2世 (1308年)
- ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス (1308年没)
- ヴァフタング3世 (1308年没)
- 忠烈王 (1308年没)
- ハインリヒ1世 (ヘッセン方伯) (1308年没)
同じ地域に関係する人物
- チャン・ダイ・クアン (2018年没)
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