伝記
プブリウス・カニディウス・クラッススは、紀元前1世紀中ごろの共和政ローマの政治家・軍人である。マルクス・アントニウスの忠実で有能な将軍として知られ、紀元前40年に補充執政官を務め、紀元前30年に処刑された。生年は不明である。
カニディウス氏は無名の平民の家柄で、共和政末期に歴史に現れる。父のプラエノーメンはプブリウスだが、それ以外は何も分からない。出身はピケヌム地方だった可能性があり、同じくアントニウス派の将軍であるルキウス・デキディウス・サクサ、プブリウス・ウェンティディウス・バッススと並べて語られることが多かったという。最初の記録は紀元前43年のものである。ガリア・ナルボネンシスでマルクス・アエミリウス・レピドゥスの部下(おそらく副官)として仕え、すでにアントニウスの熱心な支持者だった彼は、レピドゥスの軍中で宣伝を行い、レピドゥスとアントニウスの同盟を促した。この結果、年末には第二回三頭政治が成立した。その後の数年間、カニディウスはアントニウスの友人とみなされ、彼に多大な影響を与えたとされる。紀元前40年には、ルキウス・コルネリウス・バルブスとともに、短期間ではあるが補充執政官を務めた。
任期の後は、アントニウスが支配する東方の属州に赴いた。紀元前36年にアントニウスがパルティア遠征を始めると、これに加わった。軍の一部を率いてアルメニアからイベリア王国に侵攻し、王ファルナバゾス2世をローマに服従させ、さらにカフカス・アルバニア王国のゾベル王も服従させた。カフカス地方にまで進んだ結果、プルタルコスによれば、アントニウスの名とその力は異民族のあいだに知れ渡った。遠征そのものは大きな損害を出して退却に終わったが、カニディウスは退却時に軍団を救う働きをしたといわれる。その後はアントニウスのアルメニア王アルタウァスデス2世に対する懲罰遠征にも加わり、アントニウスがエジプトへ去ると、軍の大部分を指揮してアルメニアを押さえる任にあたった。やがてオクタウィアヌスとの戦争が近づくと、軍を率いて西へ向かい、アジアの沿岸で冬を過ごした。
紀元前31年のアクティウムの海戦の前、カニディウスははじめ戦争にクレオパトラが同行することに賛成していた。プルタルコスは、女王が彼に賄賂を渡したと主張している。しかし後に考えを変え、自軍の強みは陸上にあるとして、クレオパトラをエジプトへ戻し、海戦ではなく陸戦で決着をつけるようアントニウスに進言した。マケドニアかトラキアへ退き、そこにいるアントニウスの軍団やゲタイと合流することも主張した。これは紀元前48年にカエサルがポンペイウスに対してとった戦略に基づくとの見方もある。だがクレオパトラは海戦での勝利が必要だと主張し、それが通った。
海戦のあいだ、カニディウスは19個軍団と騎兵12,000を率いて陸上から戦況を見ていた。クレオパトラの艦隊が戦線を離れ、アントニウスがこれを追って去ると、指揮官を失った軍は陸海とも総崩れとなった。アントニウスはカニディウスに、テナロン岬からマケドニアを通って東へ向かうよう命じたが、軍の命運は尽きたと考えたカニディウスは、ある晩に陣営を離れた。その軍団はオクタウィアヌス側についた。このことは、カニディウス自身がエジプトのアントニウスに報告した。紀元前30年、オクタウィアヌスの完全な勝利で戦争が終わり、アントニウスとクレオパトラが自殺すると、カニディウスは処刑された。ウェッレイウス・パテルクルスは、彼を、人生を捧げた軍人という職業が求めるよりも臆病であったと評している。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハネ・ヒルカノス2世 (紀元前30年没)
- クレオパトラ7世 (紀元前30年没)
- マルクス・アントニウス (紀元前30年没)
- プトレマイオス15世 (紀元前30年没)
- ウァロ・アタキヌス (紀元前30年代没)
同じ地域に関係する人物
- アブ・アル=ハサン・アル=シャディリー (1258年没)
- Heraclas of Alexandria (248年没)
- Pope Theonas of Alexandria (300年没)
- ガイウス・アウィディウス・カッシウス (175年没)