伝記
クレオパトラ7世は、紀元前69年に生まれ、紀元前30年8月12日に没した、プトレマイオス朝最後の女王である。王朝はアレクサンドロス3世の部下プトレマイオス1世に始まるため、彼女もギリシア系であった。「絶世の美女」として知られるが、治世当時の肖像はアントニウスが発行したとされる硬貨の横顔しか残らず、この評価は後世の作り話だとする説もある。カエサルやアントニウスとのロマンスで知られ、4人の子を産んだ。名は古代ギリシア語で「父の栄光」を意味するクレオパトロスの女性形にあたる。父は紀元前80年から58年、および55年から51年に在位したプトレマイオス12世で、王家の系図に不備があるため、母は特定されていない。当時のプトレマイオス朝は、穀物の供給地としてローマの影響下にあり、世界でも最も裕福だったと推測する学者もいる。父は地位の安定のためカエサルを買収して王位を認められたが、その費用を増税でまかなったため、紀元前58年に反乱が起き、ローマへ亡命した。この時に伴った娘が彼女だとする研究者もいる。父は紀元前55年、シリア属州のガビニウスと共にアレクサンドリアへ戻って復位したが、亡命中の生活費と政界工作費で莫大な借金を背負った。
紀元前51年、18歳の時に父が亡くなると、遺言によって弟プトレマイオス13世と共同で王位に就いた。彼女はエジプト人との宥和のため、自らエジプトの文化を取り込もうとしたと考えられている。プルタルコスによれば、彼女は多数の言語を自在に操り、歴代の王とは違ってエジプト語も習得していた。また、イシスと同一視して描かれることもあった。経済では通貨価値の切り下げや輸出の増加により、立て直しに成功したという。ところが紀元前48年、共同統治を嫌った13世によってアレクサンドリアから追放された。そこへポンペイウスを追ってきたガイウス・ユリウス・カエサルが訪れ、彼女を召喚した。プルタルコスによると、彼女は夜陰に乗じて寝具袋に入り、シチリア人アポロドロスに運ばれてカエサルの前に現れたといい、この大胆さに魅せられたカエサルは、13世との仲を取り持とうとしたという。絨毯に包まれたとする話は史料では確認できない。
カエサルは13世を攻め殺し、彼女はもう一人の弟プトレマイオス14世と結婚して復位した。実質は彼女一人の統治であり、紀元前47年にカエサルの子カエサリオンを産んだ。紀元前46年にはカエサリオンらとローマを訪れ、カエサルの別荘に滞在した。ところが紀元前44年にカエサルが暗殺されると、カエサリオンは後継者とはならず、後継には養子オクタウィアヌスが定められていた。帰国した彼女のもとで14世が逝去し、カエサリオンが跡を継いだ。紀元前42年のフィリッピの戦いの後、三頭政治側のマルクス・アントニウスに出頭を命じられると、アプロディーテーのように着飾ってタルソスへ赴き、瞬く間にアントニウスを魅了したといわれる。アントニウスはオクタウィアと離婚して彼女と結婚し、紀元前39年に双子の男女、紀元前36年にもう一人の男児が生まれた。
紀元前34年、アントニウスは彼女との子らに東方世界を分割して与えると約束した。オクタウィアヌスはこれを宣伝に利用し、彼女はローマの外敵に仕立て上げられていった。紀元前31年のアクティウムの海戦では、古代の記録によれば9月2日に彼女が突如戦線を離脱し、アントニウスも追ったために敗れたとされる。だが有能な指揮官と豊かな経済力を持ちながら何もできず敗れたというのは不可解であり、責任を彼女に負わせる記述には疑問も残る。
同じ年に亡くなった人物
- プブリウス・カニディウス・クラッスス (紀元前30年没)
- ボグド (紀元前30)
- ウァロ・アタキヌス (紀元前30年代没)
- プトレマイオス15世 (紀元前30年没)
- ヨハネ・ヒルカノス2世 (紀元前30年没)
同じ地域に関係する人物
- アルシノエ2世 (紀元前260年代没)
- プトレマイオス12世 (紀元前51年没)
- サイード・ダルウィーシュ (1923年没)
- テオポンポス (紀元前314)
- フサイン・デイ (1838年没)