HISTORICAL PERSON · 紀元前30年没

プトレマイオス15世

カエサルとクレオパトラ7世の子で、プトレマイオス朝最後のファラオ。紀元前30年、オクタウィアヌスに捕らえられて殺され、王朝は滅亡した。

生涯
紀元前30年没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(アレクサンドリア県 / アレクサンドリア)
出生地
エジプト・アラブ共和国(アレクサンドリア)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(アレクサンドリア県)

伝記

プトレマイオス15世は、通称をカエサリオンといい、プトレマイオス朝最後のファラオである。「小カエサル」を意味するこの通称のとおり、共和政ローマの将軍ガイウス・ユリウス・カエサルとクレオパトラ7世の子とされ、紀元前47年に生まれた。メンフィスのセラペウムから見つかったエジプト民衆文字の碑文には、6月23日の誕生が記されているという。カエサルがアレクサンドリア戦争に介入し、プトレマイオス13世に対するクレオパトラの王位継承の主張を軍事的に支えた紀元前48年9月から翌年1月のエジプト滞在中に身ごもられたと考えられている。異父弟妹にアレクサンドロス・ヘリオス、クレオパトラ・セレネ、プトレマイオス・フィラデルフォスがいる。

紀元前46年の末、クレオパトラは幼い息子を連れてカエサルの招きでローマを訪れ、カエサルの私邸に公式の客として滞在した。カエサルに似ていたと記す資料もあり、のちにマルクス・アントニウスは、カエサルが側近に彼を実子だと私的に認めていたと元老院で証言した。一方、カエサルの支持者ガイウス・オッピウスは、カエサルが父ではあり得ないと論じる小冊子を書いた。カエサルは彼をローマ法上の正統な後継者として正式に認めることはなく、紀元前44年3月15日に暗殺された後、遺言に彼の名はなく、後継者に指名されたのは姪の息子オクタウィアヌスだった。実父について古代の記録は意見が分かれるが、カエサルである可能性が高いとして、現代の学者のほとんどがこの説を受け入れている。

暗殺後、クレオパトラは2歳の息子を連れてアレクサンドリアに戻った。まもなく共同統治者であった弟のプトレマイオス14世が死去し、紀元前44年9月2日、3歳の彼はエジプト王として正式に宣言された。「父と母を愛する神」という称号が与えられ、実権は母が握り続けたとされ、母は自らを女神イシスに、彼を息子ホルスになぞらえて示した。紀元前44年鋳造のキプロスの貨幣には、母の腕に抱かれた幼子の姿が描かれ、これが現存する最古の肖像とされる。アルマントには誕生の神性を描いた誕生殿も造られた。紀元前34年、アントニウスが東方の領土と称号を彼とクレオパトラの子ら3人に与えたアレクサンドリアの寄進で、彼は神の子、また「諸王の王」と宣言され、カエサルの真の息子であり後継者だともされた。これはオクタウィアヌスにとって直接の脅威であり、アントニウスとの決裂の一因になったとされる。

紀元前31年のアクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラが敗れると、クレオパトラは彼を母なきあとの単独の統治者に育てようとしたらしい。紀元前30年にオクタウィアヌスがエジプトへ侵攻すると、17歳の彼は安全のため紅海の港ベレニケへ送られたかもしれない。プルタルコスによれば、彼はインドへ送られたが、教育係の一人ロドンに、カエサルが王位を約束していると説得されて戻り、捕らえられて殺害された。教育係の裏切りによるともいわれる。没日は8月23日とされるが、8月下旬とする資料もある。母の死後、名目上は数日だけ単独のファラオだったともされる。オクタウィアヌスと同じく「カエサルの後継者」となる可能性を持つがゆえに殺されたとみられ、ここにプトレマイオス朝は滅亡し、3000年を超えるエジプトの伝統的な王権も終わった。一方、クレオパトラがアントニウスとの間にもうけたクレオパトラ・セレネら3人の子は、アントニウスの前妻オクタウィアに預けられ、ローマでオクタウィアヌスの親戚として厚遇された。

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