HISTORICAL PERSON · 175年没

ガイウス・アウィディウス・カッシウス

ローマ五賢帝時代の軍人。パルティア戦争でセレウキアとクテシフォンを陥落させ、シリア総督としてエジプトの反乱も鎮圧した。175年に皇帝即位を宣言して反乱を起こしたが、百人隊長に殺害された。

生涯
175年没
死亡地
古代エジプト(紅海県 / アエギュプトゥス)
出生地
シリア共和国(キュロス)
出典
世界地図
古代エジプト(紅海県)

伝記

ガイウス・アウィディウス・カッシウスは、ローマ帝国の五賢帝時代の軍人である。130年頃に生まれ、175年7月に没した。皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスに対して反乱を起こしたことで知られる。反乱のときの名乗りは、インペラトール・カエサル・ガイウス・アウィディウス・カッシウス・アウグストゥスであった。

シリアのキュロスの出身で、父はガイウス・アウィディウス・ヘリオドルス、母はユリア・カッシア・アレクサンドラである。父は騎士身分で、ハドリアヌス帝のもとで書記官を務め、のちに137年から142年までエジプト総督の職にあった。弁論の才だけでこの高位を得たと伝えられる。母の家系は初代皇帝アウグストゥスにつながり、ヘロデ大王の血も引くとされ、カッシウスはユリウス・クラウディウス朝の血を受け継ぐ末裔の一人であった。経歴はアントニヌス・ピウス帝の時代に始まり、154年に財務官に加えられたかともいわれる。ピウス帝の治世の末ごろには下モエシアに駐屯する軍団の軍団長となり、遅くとも161年には軍団長であったことが確かである。

名を上げたのは、ルキウス・ウェルスとマルクス・アウレリウスが共同皇帝であった時代のパルティア戦争である。第3ガッリカ軍団を率い、165年にはユーフラテス川を下ってドゥラ・エウロポスでパルティア軍を破った。その年のうちに南へ進み、チグリス川の双子の都市であるセレウキアとクテシフォンを攻め落とした。降伏していたセレウキアについても、住民が約束を破ったと主張して破壊している。補給に窮した軍にはこの頃、のちにアントニヌスの疫病と呼ばれる病の兆しが現れた。カッシウスは戦利品を携えてシリアへ戻り、戦いの詳細をローマに報告して、元老院議員の地位を得た。166年5月には補充執政官となり、このころ、カッシウスが第3ガッリカ軍団を率いてインダス川を渡ったという誤った噂がローマに届いた。同年末にはシリア属州総督に任じられた。170年には、エジプトのブコリの反乱に対処するため、東方全域に命令権を持つ特別な地位を与えられた。穀物価格の高騰が原因とされるこの反乱はアレクサンドリアに迫ったが、カッシウスの軍に阻まれ、反乱勢力を分断して各個に討つ策で175年までに鎮められたという。

175年、カッシウスはマルクス・アウレリウスが死去したとの知らせを受けて皇帝即位を宣言した。しかしマルクスはまだ生きており、勇み足であった。病気がちのマルクスが危篤だと思い込んでいたところへ、妻の小ファウスティナが、年若い息子コンモドゥスを守るために即位宣言を後押ししたともされる。マルクスの生存を知った後も、カッシウスは反乱を収めなかった。同年4月に兵を挙げてローマ帝国東部を押さえたが、重要な穀倉地帯である皇帝私領エジプトの支持は得られなかった。

そのころマルクスはマルコマンニ戦争に従事していた。当初は軍人たちに反乱を伏せようとしたが、やがて知れ渡り、元老院はカッシウスを国家の敵とする決議を可決した。カッパドキア属州総督マルティウス・ウェルスはマルクスに従い、カッシウスを攻撃した。結局、カッシウスは自軍の百人隊長に殺された。首はマルクスのもとへ送られたが、マルクスは首実検を断り、すぐに埋葬するよう命じた。妻はウォルシア・マエキアナで、2男2女をもうけた。二人の息子は反乱鎮圧後に処刑され、娘のアウィディア・アレクサンドラは夫とともにおじの保護下で暮らした。

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