伝記
ケレスティヌス5世は、本名をピエトロ・ダ・モローネといい、一二一〇年頃に生まれ、一二九六年五月十九日に没した中世のローマ教皇である。在位は一二九四年七月五日から十二月十三日までで、約半年にすぎない。修道士としては有徳の人であったが、教皇空位の混乱を収めるための、つなぎ役の教皇として選ばれた。しかし教皇の座を厭い、自ら退位した。生地はイタリアのイゼルニアの小作農の家ともいわれ、モリーゼ地方のサンタンジェロ・リモサーノともいわれ、生年も一二一五年ともいわれる。
父は彼が五、六歳の頃に亡くなったとされ、母は息子の信仰の成長を励まし、家産の一部を売って家庭教師を雇ったが、兄弟たちの反感を買ったという。若くしてベネディクト会の修道士となり、十七歳の頃だったともいわれる。禁欲を貫いて隠修士、司祭、修道院長などを務めた。一二三〇年代の初めには、モローネ山の孤立した洞窟に籠もり、その暮らしぶりに惹かれて、追随者が集まった。病を奇蹟的に治したとして名声も広まった。一二四四年には、ローマで叙階を受けたのち、さらに人里離れたマイエッラ山の洞窟に移り、厳しい禁欲生活を続けた。貧者や病人の世話に専念する修道会を創設し、この会は、のちにケレスティヌス修道会と呼ばれた。一二六三年六月に教皇ウルバヌス4世から正式に認可され、一二七四年にはリヨンで教皇グレゴリウス10世を説得して、修道会の存続を認めさせたとされる。ピエトロは三十六の修道院と六百人を超える修道士を率いる総長になった。
一二九二年四月にニコラウス4世が没すると、後継者をめぐる教皇選挙は紛糾し、教皇空位は二年に及んだ。一二九四年三月、ナポリ王カルロ2世が選挙会議の開かれているペルージャを訪れ、枢機卿たちに四人の候補を記したメモを示したが、彼らは関心を示さなかった。その後ローマで暴動が起こると、ピエトロは枢機卿の一人に手紙を送り、すぐに教皇を選ばなければ神罰が下ると警告した。手紙を披露された枢機卿たちは、ピエトロ自身に教皇になってもらえばよいと考え、全員がこれを支持した。彼は意外な展開に驚き、修道院を去って辞退しようとしたが、カルロ王に引き止められ、ハンガリー王らの説得もあって、ようやく承諾した。
教皇となった彼はローマへ行かず、身辺をカルロ2世に委ねてナポリに住み、実質的に王の傀儡となった。半年足らずの在位中には、フランシスコ会のスピリトゥアル派が独立することを認めている。やがて彼は、自ら教皇の器ではないと述べて退位を望み、教会法に詳しいベネデット・カエターニ枢機卿に相談した。枢機卿は教会法に基づく辞任の方法を助言した。一方で、夜ごと聞こえる、教皇職を辞して隠者に戻れという声に悩まされたともされ、枢機卿自身が仕組んだとする説もある。彼は、教皇に選ばれた者は選出を拒否できるとする法令を出して、退位した。存命のまま教皇が退く、異例の事態であった。後継のボニファティウス8世は、退位の合法性を疑うコロンナ家の追及をかわすため、彼をフモーネ城の牢獄に幽閉した。獄中で感染症による膿瘍の痛みに苦しみ、十か月後に没した。八十六歳前後で、当時としては高齢であった。一三一三年、教皇クレメンス5世によって列聖された。
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