伝記
ハドリアヌス4世は、第169代のローマ教皇(在位1154年〜1159年)で、本名をニコラス・ブレイクスピアといい、イングランド出身の教皇としては唯一の人物である。1100年ごろ、現在のハートフォードシャーにあたるアボッツ・ラングレー教区のブレイクスピア農場に生まれ、セント・オールバンズの修道院学校で学んだ。父ロバートはのちにセント・オールバンズの修道士となったが、ニコラス自身は、修道院長から学校での習得状況がふさわしい段階に達するまで入院を保留され、修道院に入ることを許されなかった。
そこで彼はフランスのパリへ渡り、やがて南仏アルルに近いサン・ルフ修道院の律修参事会員となった。続いて次長を経て、まもなく満場一致で修道院長に選ばれた。この時期は通常1137年とされるが、同修道院の記録は1145年ごろの可能性も示している。改革に強い姿勢で臨んだために苦情もローマへ届いたが、それがかえって教皇エウゲニウス3世の目に留まって好意的に評価され、1149年12月にイタリア中部アルバーノの司教枢機卿に任命された。さらに1152年から1154年にかけて教皇特使としてスカンジナビアへ赴き、新設されたニーダロスの大司教区を任されてハーマル管区を設けたほか、ガムラ・ウプサラの管区承認にも寄与した。領地が削られたルンド大司教には、代償として教皇特使などの地位を与え、デンマークとスウェーデンの首座主教に引き上げたという。帰任後は、教皇アナスタシウス4世からその働きを大いに称えられた。
アナスタシウス4世の死後、1154年12月3日に満場一致で次の教皇に指名され、ハドリアヌス4世として即位した。当時の教会は内外に難題を抱えていた。北からは、皇帝フリードリヒ1世がアルプスを越えてイタリア遠征を行い、戴冠を求める一方で教皇領への勢力拡大をもくろんでいた。南からはノルマン朝のグリエルモ1世がシチリア王権の承認を迫って教皇領を脅かし、東ローマ帝国のマヌエル1世もイタリア支配の野心を抱いていた。足元のローマでも、学僧アルノルド・ダ・ブレシアに率いられた反教皇の運動が起こり、枢機卿が白昼に襲われる事件まで起きていた。ハドリアヌスはフリードリヒと手を組んでこれに対抗し、1155年の聖枝祭の直前に前例のないローマへの聖務禁止を決めた。これを受けてローマの元老院はアルノルドを追放した。
同年、戴冠のために軍を率いてローマへ来たフリードリヒは、教皇の馬の鐙を支えるという屈辱的な儀礼を受け入れて帝冠を授けられ、そのまま帰国した。教皇はシチリアを王国と認めず、グリエルモが教皇領南部へ侵攻すると、同年9月に東ローマ帝国や反ノルマン派の貴族と同盟して加勢した。しかし1156年5月のブリンディジの戦いで大敗し、ベネヴェントで和平条約を結ぶことになった。
また1155年には、勅書「ラウダビリテル」でイングランド王ヘンリー2世にアイルランド攻めを許可したとされる。この勅書の真正性には疑問が投げかけられているが、何らかの書面が出されたことは間違いないともいわれる。その後、教皇は皇帝に強硬な態度をとり、1156年に断交してシチリアと結んだ。1157年のブザンソンの会議では、教皇の手紙にあった語の訳が皇帝の怒りを買い、溝は深まった。皇帝を破門する寸前の1159年9月1日、扁桃腺炎を患った教皇はアナーニで死去した。年代記には、泉の水を飲んだ際に喉にハエが張り付いて死んだという逸話も記されている。
同じ年に亡くなった人物
- 助祭ピエール (1159年)
- ベルタ・フォン・ズルツバッハ (1159年没)
- ヴワディスワフ2世ヴィグナニェツ (1159年没)
- アニェス・ド・ポワティエ (1103-1159) (1159年没)
- ジョスラン2世 (エデッサ伯) (1159年)
同じ地域に関係する人物
- パウルス・ディアコヌス (799年没)
- コンスタンティヌス・アフリカヌス (1087年没)
- ケレスティヌス5世 (ローマ教皇) (1296年没)
- レオポルト6世 (オーストリア公) (1230年没)
- マルクス・トゥリウス・ティロ (紀元前4年没)