伝記
レオポルト6世は、1176年10月15日に生まれ、1230年7月28日に没した、バーベンベルク家の第4代オーストリア公(在位1198年〜1230年)である。「壮麗公」と呼ばれた。第2代オーストリア公レオポルト5世と、ハンガリー王ゲーザ2世の娘ヘレナ(イロナ)の次男で、第3代オーストリア公フリードリヒ1世の弟にあたる。バーベンベルク家の統治時代の最盛期を築いた。
1194年に父が事故死すると、ゲオルゲンベルクの協定の規定に反して、領地が分けられ、長兄のフリードリヒ1世がオーストリア公位を継ぎ、レオポルトはシュタイアーマルク公となった。1198年に兄が跡継ぎのないまま陣没したため、レオポルトがオーストリア公位を継ぎ、2つの公領は結びついた。1200年5月28日に騎士に叙された。1203年には、東ローマ帝国の皇女テオドラ・アンゲリナと結婚した。同時代の政治詩人ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデは、レオポルトの騎士叙任式や、1203年11月の結婚祝いのウィーン宮廷での祝宴をたたえる歌をうたった。ただ、他の人々には恩恵が施されるのに、詩人には「仕合せの門は閉ざされて」と恨む詩もある。
即位後は、自らの権力を強めようとして、貴族や領主たちを圧迫し、さまざまな理由をつけて荘園を没収した。その一方で、父が教皇に破門されて以来の教会との関係の修復をはかり、スペインの再征服戦争や、1212年のアルビジョワ十字軍に加わり、1217年から1221年には、第5回十字軍にも参加した。1217年1月に十字軍に出発すると、ヴァルターは、ウィーンの館を擬人化して「屋根は朽果て壁はくずれる」と嘆かせ、1219年1月に帰還すると、「あなたは大業をお遂げなされた」と歓迎した。1212年にエンスを、1221年にウィーンを市に格上げし、ウィーンの領域はほぼ倍になった。現在のウィーンの基礎は、この時代に築かれた。1215年に、神聖ローマ帝国で、ヴェルフ家のオットー4世とホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世との継承争いが起こると、フリードリヒ2世に協力してその勝利に貢献した。これにより、ホーエンシュタウフェン家と親密になり、フリードリヒ2世の長男ハインリヒ(7世)に娘を嫁がせた。
多くの修道院を設け、とくにリリエンフェルト修道院は、領土の開発を進める意図で創設した。托鉢修道会のフランチェスコ会とドミニコ会も支援した。彼の治世に、ゴシック様式がオーストリアに入り、クロスターノイブルクの仮の居城の「美しい礼拝堂」が、ドナウ川流域で最初のゴシック様式の建物とされる。宮廷は、ミンネザングの中心として知られた。
1230年に、レオポルトの仲介により、皇帝フリードリヒ2世と教皇グレゴリウス9世のあいだで、サン・ジェルマーノの和議が成立した。しかしレオポルトは、サン・ジェルマーノで急病で死去した。55歳だった。自ら創建したリリエンフェルト修道院に葬られた。長男と次男が早世したため、三男のフリードリヒ2世が跡を継いだ。テオドラとのあいだには7人の子があり、長女のマルガレーテは、ハインリヒ(7世)の死後、ボヘミア王オタカル2世と再婚した。
同じ年に亡くなった人物
- ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ (1230年)
- ベレンガリア・オブ・ナヴァール (1230年没)
- ベネデット・アンテラーミ (1230年)
- ボルテ (1230年代没)
- アダ (ホラント女伯) (1230年代没)
同じ地域に関係する人物
- コンスタンティヌス・アフリカヌス (1087年没)
- ハドリアヌス4世 (ローマ教皇) (1159年没)
- ヌルシアのベネディクトゥス (547年没)
- ケレスティヌス5世 (ローマ教皇) (1296年没)
- スコラスティカ (547年没)