伝記
ジャラールッディーン・ハルジーは、インド北部を支配したデリー・スルタン朝の一つ、ハルジー朝の創始者である。もとの名はフィーローズで、ジャラールッディーン・フィーローズ・シャーとも呼ばれる。ハルジー族はテュルク系に起源をもつ部族で、中央アジアから移ってアフガニスタンに200年以上住み、アフガン人の習俗を多く取り入れた。そのため、デリーのテュルク系貴族は彼らをテュルク系とは見なさなかった。ジャラールッディーンの生年は知られていない。父はトゥーラク・ハーン(ユグルシュ)で、現在のパキスタンとアフガニスタンの国境地帯を拠点とする集団の指導者だったと考えられている。弟シハーブッディーンの子が、のちのアラー・ウッディーンである。
奴隷王朝のスルタン、バルバンに仕えて護衛隊長となり、のちに国境のサーマーナの総督に任じられて、パンジャーブに侵入するモンゴル軍との戦いで指揮を執った。1287年にバルバンが没すると、孫のカイクバードが即位したが、実権は側近のニザームッディーンが握った。ニザームッディーンが死ぬと、カイクバードはジャラールッディーンをデリーに呼んで軍事大臣に任じた。このころカイクバードは健康を害し、デリーの宮廷ではバルバン以来のテュルク系の古参貴族と、ジャラールッディーンの率いる新しい貴族とが争っていた。カイクバードが中風で動けなくなると、古参貴族のアイテムル・スルカらは、幼い息子のカユーマルスを王位につけ、ジャラールッディーンの暗殺を計画した。計画は事前に漏れ、ジャラールッディーンはカユーマルスを捕らえた。その後カイクバードは処刑された。ジャラールッディーンは70歳を超える高齢で、1290年6月13日に新しい王朝を開いた。
即位は貴族にもデリーの市民にも歓迎されず、ジャラールッディーン自身もそれを知っていたため、デリーに入らず、郊外のキールーカリーに建設中だったカイクバードの宮殿で即位し、1年ほど都をそこに置いた。官職への登用で融和策をとり、貴族の支持を増やしていった。後世の旅行家イブン・バットゥータは、彼の温厚な性格をたたえている。流血を避けて反乱者や罪人に慈悲深くふるまい、即位の2年目にバルバンの甥マリク・チャジジューがヒンドゥー教徒を率いて反乱を起こしたときも、鎮圧後に反乱の指導者を処刑せず、最上級の待遇を与え、チャジジューをパンジャーブに移した。1292年にはフレグの孫アブドゥッラーが率いる15万のモンゴル軍を国境付近で撃退し、捕虜にした約4000人のモンゴル人を処刑せず、イスラーム教に改宗させてデリー郊外の村に住まわせた。デリー周辺の盗賊1000人ほどを捕らえたときも、ベンガルへ運んで、更生してデリーに戻らないことを条件に釈放した。
貴族たちはこれを臆病とあざ笑い、甥で女婿のアラー・ウッディーンは、不満を抱く貴族の支持を集めるため、中部インドへの遠征を志願した。アラー・ウッディーンの軍は1296年にヤーダヴァ朝の都デーヴァギリを占領したが、戦利品をジャラールッディーンに献上せず独占し、デリーへの出頭命令にも従わなかった。ジャラールッディーンは側近の警告を聞かず、数人の従者だけを連れてアラー・ウッディーンのもとへ赴いた。歴史家バラニーによれば、彼はアラー・ウッディーンに「実の子に示すかのような愛情」で接したが、アラー・ウッディーンの部下たちに斬り殺された。1296年7月19日、あるいは20日のことといわれる。
同じ年に亡くなった人物
- Guillaume Durand (1296年)
- Konrad von Feuchtwangen (1296年)
- ドニャネシュワール (1296年)
- カンパヌス (1296年没)
- Ibrahim El-Desouki (1296年没)
同じ地域に関係する人物
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- Yashpal (1976年没)
- サフダル・ジャング (1754年没)
- サングラーム・シング (1528年没)
- ラーム・V・スタール (2025年没)