伝記
ウィクトル3世は、11世紀のローマ教皇(在位1086年から1087年)である。1026年頃に生まれ、1087年9月16日に没した。本名はダウフェリウス、修道名はデジデリウスで、教皇になる前はモンテ・カッシーノ修道院長として歴史的に重要な役割を果たした。前教皇グレゴリウス7世の後継者にあたる。生い立ちについて、日本語版はベネヴェント公の子として生まれ、13歳でモンテ・カッシーノ修道院に入ったとする。一方、英語版が引くカトリック百科事典では、父は1047年に戦死し、彼はベネヴェントの聖ソフィア修道院への入会を許されたとされ、記述が食い違う。
英語版によれば、聖ソフィア修道院の生活は若い修道士には厳しさが足りず、彼は最初にアドリア海のトレミティ諸島の修道院へ移り、1053年にはアブルッツォのマイエッラの隠修士たちのもとに移った。この頃に教皇レオ9世の目にとまり、ノルマン人との和平交渉に用いられた可能性があるという。のちに教皇ウィクトル2世の宮廷に属し、そこで知り合ったモンテ・カッシーノの修道士二人とともに1055年に同修道院へ入った。1057年、教皇ステファヌス9世が死を覚悟して新しい院長の選出を命じ、修道士たちの選択はデジデリウスに落ちたが、教皇は回復して院長の座を保った。1058年の復活祭に、彼は正式に院長に就いた。同年3月には教皇ニコラウス2世によって枢機卿に上げられ、1059年にはサンタ・チェチーリア教会の司祭枢機卿となった。
修道院長としての彼は、聖堂と修道院の建物を再建し、写本室の製品を磨き上げ、修道規律を立て直した。その結果、彼の時代の修道院には200人の修道士がいたという。1071年10月1日には、新しい聖堂が教皇アレクサンデル2世によって献堂された。名声は修道院に寄進と特権をもたらし、その資金で、コンスタンティノープル製の宝石とエナメルで飾られた金の祭壇前飾りなどが整えられた。助祭ペトルスは、彼が修道院で書写させた約70冊の書物を挙げており、アウグスティヌスやアンブロシウスの著作、ユスティニアヌスの法典、ウェルギリウスやキケロの作品などが含まれる。彼はカンパーニア、プーリア、カラブリア、ベネヴェント公国の教皇代理として、修道院改革の特別な権限を与えられていた。
グレゴリウス7世の時代、彼は南イタリアのノルマン人の助力を繰り返し教皇庁のために引き出し、1080年末にはノルマン軍を得ている。1083年には平和を愛する修道院長として、クリュニーのフーゴーとともに教皇と皇帝の和解を試みたが、教皇の側近には疑われもした。1084年、ローマが皇帝ハインリヒ4世の手に落ちて教皇が包囲されると、ギスカールの軍が近づいていることを皇帝と教皇の双方に知らせた。
1086年5月24日に教皇に選ばれたが、彼は引き受ける気がほとんどなかった。英語版は、健康の衰えが主な理由だったとし、教皇着座式の際に病に倒れたことから、実際に重い病であったことがうかがえるとしている。着座式が行われたのは、選挙の1年も後であった。ローマにいた対立教皇クレメンス3世の圧迫を嫌ってモンテ・カッシーノにひきこもったが、トスカーナ公妃マティルデにローマ帰還を説得された。1087年8月、ベネヴェントで教会会議を開き、クレメンス3世の破門、俗人による叙任の禁止、アフリカのサラセン人への軍事行動を決議した。会議中に病にかかり、9月16日に同地で没した。後継はウルバヌス2世である。英語版は、彼を、ウィクトルの名を用いて合法的に選ばれた最後の教皇としている。
同じ年に亡くなった人物
- ドブロネガ・ウラジミロヴナ (1087年没)
- ウィリアム1世 (イングランド王) (1087年没)
- コンスタンティヌス・アフリカヌス (1087年没)
- ザルカーリー (1087年没)
- シャラモン (ハンガリー王) (1087年没)
同じ地域に関係する人物
- コンスタンティヌス・アフリカヌス (1087年没)
- スコラスティカ (547年没)
- ヌルシアのベネディクトゥス (547年没)
- レオポルト6世 (オーストリア公) (1230年没)
- マルクス・トゥリウス・ティロ (紀元前4年没)