伝記
ガイウス・リキニウス・マケル・カルウスは、共和政ローマ末期の弁論家であり詩人である。紀元前82年5月28日に生まれ、没年は紀元前46年とも紀元前47年ともされ、47年より前に亡くなったともいわれる。生地はラティウム南部のアルピヌムとする説もあり、死没地はローマとされる。
父は歴史家のガイウス・リキニウス・マケルで、リキニウス氏族に属した。父は護民官から法務官を経て属州を治めたが、紀元前66年に法務官キケロによって不当利得の罪で訴えられ、有罪となって自ら命を絶ったとされ、判決が下される間際に喉を詰まらせて死んだとも伝えられる。カルウスは早くから弁護士として頭角を現し、キケロと同じ時期に名をあげた。
弁論では、飾り立てたアジア風の文体に反対し、簡潔なアッティカ風を支持した。この立場から、ギリシアのアッティカの弁論家、とくにリュシアスに学んだ流れに連なるとされる。キケロを「しまりのない力のない文体」と評し、キケロのほうはカルウスを「血の気がなく乾いている」と評したが、二人の間に敵意はなく、キケロはカルウスを高く称えたという。クリオやブルトゥスとともに、キケロに対する一種の対抗派を成したともいわれる。
タキトゥスは彼の弁論を21編挙げており、その中にはプブリウス・ウァティニウスを糾弾した数編がある。カルウスは紀元前58年と紀元前54年にウァティニウスを訴えた可能性が高く、後者ではウァティニウスをキケロが弁護した。この裁判のひとつ(おそらく2度目)は、カトゥルスの詩第53番に描かれている。傍聴人が「神々よ、なんと雄弁な小男だ」と叫び、カトゥルスを笑わせたという。この珍しい語の意味には議論があり、カルウスの機知や背の低さを指すとも、卑猥な意味を帯びるともいわれる。大セネカは、カルウスの背が低かったことに触れている。依頼人アシニウス・ポッリオがガイウス・カトの支持者に攻撃されたとき、カルウスは自分を壇上に持ち上げてほしいと頼み、弁護に立ったという逸話がある。また、ある裁判で被告が飛び上がり、「裁判官諸君、あの男が雄弁だからといって、私は有罪にされるのか」と訴えたという話も伝わる。
詩人としては、カトゥルスの親しい友であり、その作風や主題を共有した。カトゥルスはカルウスに宛てて数編の詩を書いており、第50番では、二人が楽しい午後を、交互に短い詩を作って過ごしたことが語られる。カルウスは恋人クィンティリアの死を悼む哀歌や、カエサルを風刺する作品を著した。エピグラム、官能的な詩、牧歌、伝説を扱う叙事詩『イオ』も書いたとされる。作品は断片しか残らず、1896年にフレデリック・プレシスが断片集を出版した。
同じ年に亡くなった人物
- ルキウス・アフラニウス (紀元前46年没)
- クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカ (紀元前46年没)
- マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス (紀元前46年没)
- ウェルキンゲトリクス (紀元前46年没)
- ファウストゥス・コルネリウス・スッラ (紀元前46年没)
同じ地域に関係する人物
- シドニー・ソンニーノ (1922年没)
- トルクァート・タッソ (1595年没)
- インノケンティウス8世 (ローマ教皇) (1492年没)
- ルキウス・アンナエウス・フロールス (140年没)
- ベネディクト16世 (ローマ教皇) (2022年没)